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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 1

創作「刃皇紀」

 闇守の末裔に仕える影蜘蛛たちの栖は地下隧道の中でも一際深く潜った層にあり、水脈に近い所為か、常に濃密な湿気が蟠っている。グルタエに導かれ、ラシルドとフェロシュが足を踏み入れたペンブロード家の蜘蛛孔(くもあな)は、間口の狭さとは裏腹に奥行きがあり、入り組んだ洞穴が正に蜘蛛の巣の如く複雑な紋様を描いていた。

「此方で御座います」

 蜘蛛孔の路地は繁雑な枝分かれと起伏を重ねて果てしなく続いており、影蜘蛛の案内人を欠いて踏み込めば道に迷うことは必定だ。暗闇を透かして事物を捉える力に秀でた彼ら影蜘蛛の眼力に合わせて、路地の灯りは最低限の明るさに絞られており、常人が視界を確保する助けにはならない。そもそも蜘蛛孔に部外者が忍び込むのは暗黙裡に禁忌と看做されている。露顕すれば直ちに拘束され、闇守の一存で無慈悲な刑罰が下されることとなる。

「気味が悪いな」

 冷やりとした隧道の闇に身を委ねて歩きながら、ラシルドは控えめに不満を漏らした。薄らと照らし出された蜘蛛孔の両脇に、小さな石像がずらりと並んでいるのが視界の隅に映じたのだ。

「あれは御霊虫(みたまむし)の石像です。死者の魂が姿を変えたものと、影蜘蛛たちは信じています」

 フェロシュの端的な解説に、ラシルドは肩を竦めてみせた。

「虫を崇めるなんて慣習は聞いたことがないな」

「異教の信仰だと嘲りたいんでしょう」

「誹謗する積りはない。単に見慣れないだけだ」

 御霊虫の石像が延々と連なる路地は、蜘蛛孔の奥深くに鎮座する聖廟へと通じていた。影蜘蛛たちを統べる歴代の蜘蛛頭(くもがしら)の偶像を祀ったその空間は、当代の蜘蛛頭の行住坐臥に充てられており、誰でも自由に立ち入れる訳ではない。

「蜘蛛頭のシュタフェライも、御寮様の帰還を心待ちにしております」

「だから何度も言わせないでよ、グルタエ。あたしはヴィオルの頭目に収まる積りなんてない。あんたたちの期待には応えられないわ」

「それでも一向に構わないのです、御寮様」

 特に失望した様子もなく、グルタエは落ち着いた表情で答えた。

「この期に及んで、ソルトビルの家名を再興しようなどと試みるのが如何に愚かしい企てか、我ら毒蜘蛛も弁えておらぬ訳では御座いません。御寮様を再び我ら影蜘蛛の主君として迎えることは恐らく、見果てぬ夢に過ぎません。ですが」

 そこまで言って不意に口を噤んだグルタエの瞳に宿る痛ましい逡巡を、フェロシュは見逃さなかった。

「毒蜘蛛の問題を、あたしに片付けてもらいたい。そういうこと?」

「無論、僭越の謗りは甘んじて受け容れる覚悟です」

 意を決して言い放ったグルタエの真摯な面差しを、単なる我儘として一蹴するのは躊躇われた。詳細な説明を受けずとも、既に得られた様々な情報の断片を繋ぎ合わせれば、漠然たる見取り図くらいは描けぬこともない。「毒蜘蛛の飼い主は、この国の中枢におります」というグルタエの暗示は、ムジークというイストリッターの食客が単なる素行の悪い流れ者ではないことを意味している。

「ムジークの素性を、貴方は掴んでいるの」

「詳しいことは蜘蛛頭のシュタフェライから説明が御座いましょう」

「随分怯えているのね」

「御寮様」

 薄明かりに照らされたグルタエの瞳は緊迫した光を湛えていた。

「我らソルトビルの影蜘蛛は、ペンブロードへの怨念を水に流した訳では御座いません。然し最も恐ろしいのは、この地下隧道の秩序が第三者によって踏み躙られ、危うい均衡が崩れ去ることです。主人を殺され、縄張りを奪われた恨みに固執して、内輪揉めを重ねたくない。その点では、コートフェイド様の方針も同様です」

「その話は本人から聞かされたわ。貴方は説得の為に、あたしの前に姿を現したの?」

「ダルモート通りで御寮様の御姿を最初に発見したのは、この私で御座います」

 縋るように語気を強めて、グルタエは敬愛する主人の傍へ躙り寄った。

「御寮様。あのムジークという呪刀士は質の悪い男です。忠誠心の欠片もない、実に身勝手な人物なのです。一刻も早く除かねばなりません」

「コートフェイドの言いなりにはなりたくないの」

 グルタエの興奮に冷水を浴びせ掛ける積りで、フェロシュは敢えて素気ない返答を選び、蜘蛛孔の奥にぼんやりと浮かび上がった聖廟の外観へ眼差しを転じた。

「けれど、アラルファンが火の海と化すのは、あたしだって願い下げよ。早く蜘蛛頭のところへ案内しなさい、グルタエ」

 

「コードフェイド様は、ムジークを斃す為ならば如何なる手段も辞さぬ御覚悟です」

 ペンブロード家の蜘蛛頭を務めるシュタフェライは、齢七十を越した白髪の老爺であった。ソルトビル家の旧臣ではなく生え抜きのペンブロード育ちであり、背の曲がった痩躯は閲した年月の重さを告げるように、すっかり縮こまって見える。

「ティリア様が攫われた一件で、家頭のグラムホール様は劇しく憤っておられる。このままムジークの無法を許せば、アラルファンの秩序は容易に崩れ去るでしょうな」

「堪えられなくなるということ?」

「家頭はティリア様を溺愛しておられるのです。頭では激発してはならぬと己を戒めておっても、心がその理窟に従うとは限りませぬ。それが人の性というものでは御座いませんか」

 人を喰ったようなシュタフェライの口吻に、フェロシュは親指の爪を咬みながら黙り込んだ。グラムホールへの同情など微塵も持ち合わせていないが、ティリアを奪われた怒りが彼の理性を弾き飛ばしてしまうのを他人事だと嘲笑う訳にもいかない。コートフェイドの言葉を信じるなら、ペンブロード家は既にイストリッター家への襲撃を計画している。ムジークの暗殺で事が済めばいいが、一歩間違えば大規模な抗争へ発展する虞もある。交渉でティリアの身柄を奪回することが困難であるなら、ムジークの首を刎ねて持ち帰るより手立てはないが、イストリッターが麾下の呪刀士の不始末に廉潔な処断を下すとは限らない以上、事態の行く末は極めて不透明であると結論せざるを得なかった。

「イストリッター家は、ムジークの乱行を見逃している訳?」

「彼らも好き好んで見逃しておる訳ではないでしょう。問題は彼奴の剣腕で御座います。頗る腕が立つ上に、食客の身分でありながら図々しい振舞いが直らない。家頭のハイディールは何を考えておるのやら」

「ハイディールがはっきりと処分を下せば、抗争にはならないでしょう」

「そう巧く事が運ぶかどうかは疑わしいところですな」

 意味ありげな科白を口にしたシュタフェライの真意を量るように、フェロシュは唯でさえ鋭利な眼光を更に強めた。

「どういう意味なの。あたしの手を借りたいなら、迂遠な言い方は止してもらえないかしら」

「儂らも、我が身を可愛く思う心情は世俗の人々と違(たが)いませぬ」

 狡猾な輝きを湛えた瞳で、老獪な蜘蛛頭は口の端を撓めてみせた。

「口を滑らせて迂闊なことを申せば、何処から鑓が飛んでくるか知れたものでは御座らぬ」

「イストリッター家のハイディールと言えば、アラルファンに巣食うヴィオルの中では閣派の親玉に当たる男の筈よ。何故、彼奴は『毒蜘蛛』を始末しようとしないの?」

 ムジークがガルノシュの傀儡であるという明確な証拠を掴んだ訳ではないが、影蜘蛛たちの煮え切らぬ口振りから推察する限り、その見立てが的外れなものであるとは思えない。だとすれば猶更、戦時中に持ち前の反骨精神から雷声帝打倒の急先鋒たることを自ら選び取ったハイディールが、ガルノシュの息の掛かった無頼漢を養っているというのは解せない話である。

「どうやら楯がおりますのじゃ」

「楯?」

「御存知の通り、ヴィオルは身内の結束を重んじる。虐げられた者同士、肩を寄せ合うのがこの世の習いですからな。得体の知れない流れ者を迎え入れるなど、それ自体が既に奇妙な話で御座いましょう。恐らくイストリッターの中に、手曳きをした者がおる。そうでなければ、ハイディールの眼を盗んで陛派の刺客が狼藉を働くなど有り得ぬ話じゃ」

「掴んでいるの?」

「まあ、実地に確かめられた方が宜しいでしょうな」

 飽く迄も己の保身に固執する蜘蛛頭の曖昧な返答に舌打ちして、フェロシュは宛がわれた茣蓙から立ち上がった。

 

 ペンブロード家の邸宅は、市域北東部のケラール地区に位置していた。夜の帷が降りた街路は、深沈たる暗闇に覆われている。ラシルドとフェロシュは靴音を殺して、影法師のように黙々と寝静まった往来を歩いた。

「止めるなら今ですよ」

「今更、強がるのは止せ。お前は自分の信じる道しか歩めない女だろう」

「アラルファンの問題は、帝監委の計画には含まれていません」

「それが強がりだと言うんだ」

 フェロシュの険しい横顔に、ラシルドは憐憫に満ちた眼差しを向けた。今更、総てを忘れてアラルファンを発つことなど出来る訳がない。だが、彼女の胸底を刺し貫く逡巡を思えば、無理にでも連れ去るべきなのかも知れなかった。イストリッター家の剣呑な食客が本当にガルノシュの走狗であり、その目的がアラルファンの危うい政治的緊張を破壊することなのだとすれば、ペンブロードとイストリッターの抗争を放置するのは如何にも拙い。だからフェロシュ自身、コートフェイドの勧誘に導かれてペンブロード家の屋敷を訪ねようと決意した訳だが、それが彼女にとって忸怩たる選択であることは論を俟たなかった。

「コートフェイドの考え方に賛同した訳じゃありませんから」

 唇を僅かに突き出して言い捨てるフェロシュの表情には、二十年前の残像が色濃く染み込んでいた。それを幼稚な虚勢だと嗤笑するのは酷薄な仕打ちであろう。誰しも逃れ難い「過去」を背負っていることに変わりはないのだ。雷鳴戦争の記憶は言うまでもない。それ以前に、この世界へ生を享けた瞬間から紡ぎ出されていく宿業に、誰もが呪縛されている。それはラシルド自身も例外ではなかった。

「分かっているさ。お前は故郷を救いたいだけなんだろう」

「救いたいんじゃないんです」

 闇の吹き溜まりのような路傍へ不意に立ち止まって、彼女は振り向いた。

「何もかも書き替えてしまいたいんです。拭いようのない過去だからこそ」

 それが可能ならば生きることはもっと容易いだろうと、ラシルドは口に出さずに呟いた。