サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 2

 煌々と燈された篝火に、狼の髑髏を模った不吉な紋章が照らし出されていた。界隈に建ち並ぶ豪華な邸宅の数々は総て、ペンブロード家の一門の所有である。その中でも一際大きな屋敷の門前に、間違っても堅気には見えぬ禍々しい気配を纏った男たちが、人影の絶えた往来へ剣呑な視線を配りながら佇んでいた。歩み寄る二人に、匕首のような眼差しが次々と突き刺さり、頬に古びた刀創を刻んだ男が行く手を遮るように進み出て眦を吊り上げた。

「見慣れねえ顔だな。まさか迷子じゃあるまい」

「コートフェイドに用事がある。取り次いでもらえるかね」

「おいおい、呼び捨ては止めときな。命を捨てたくなけりゃ、礼儀は守んなきゃならねえぜ」

 罅割れた鐘の音のように耳障りな男の恫喝を、ラシルドは涼しい顔で受け流した。

「生憎、私はヴィオルじゃないんでね。コートフェイドを敬う義理はないな」

「口の減らねえ野郎だな。大兄の温情に少しは感謝したらどうなんだ。お前らを警事局に売り渡すのは簡単なことだぜ」

「私たちは対等な立場で取引をした筈だ。温情など、覚えがないな」

 身動ぎもせずに言い返すラシルドの落ち着いた威厳に、男は暫く憎悪に満ちた瞳を突き付けたが、軈て諦めたように苦り切った顔で足許へ濁った唾を吐き捨てた。

「流石に殉国隊の残党は肝が据わってやがるな。入れよ。大兄が御待ちだ」

 不快な悲鳴を掻き立てて背の高い鋼の門扉が開き、帯刀した数人のヴィオルが二人の両脇を固めるように隊列を組んだ。見通しの良い広々とした庭園を貫く有り触れた敷石道に、盛大な篝火の揺らめく灯影が伸びている。死角を作らない為なのか、樹木の類は殆ど植わっておらず、如何にも剣呑な顔つきの男たちが石塀に沿って等間隔で歩哨の役目を担っていた。予定された襲撃の時刻まで、最早然したる猶予はない。

 親密な会話など望みようもない一行は無言のまま、正面に聳え立つ立派な母屋の軒先へ瞬く間に辿り着いた。先頭の男が目顔で合図を送ると、鋼板を仕込んだ頑強な扉が控えていた門衛の手で開かれ、艶やかに磨かれた石畳の沓脱が視界を覆った。突き当りの壁には昔の抗争の痕跡と思しき傷や穴が無数に穿たれ、掲げられた狼の髑髏の紋章が薄闇の中で独特の光沢を放っている。

「長生きはしてみるものだな。まさかヴィオルの屋敷へ足を踏み入れる機会が巡ってくるとは思わなかった」

 ラシルドの素朴な感想を、フェロシュは冷淡な表情で突き放した。

「長生きの取り柄がそんなものなら、さっさと死んだ方がマシですよ」

「そういうことは口にするもんじゃない。親から貰った大事な命だ。きちんと慈しまねばならん」

「歳を取りましたね、隊長。やっぱり長生きは考え物ですよ」

 薄暗い歩廊を折れる度に、二人は武装したヴィオルの男たちがガーシュを銜えて目を光らせているところへ幾度も遭遇した。見慣れない客人の堅気とは思われぬ風体に吸い寄せられた彼らの双眸には、徐々に迫りつつある襲撃の興奮と緊張が如実に表れている。大事な養女を攫われた家頭の一方ならぬ憤激が、夜陰に包まれた壮麗な邸宅の隅々に、見えない雷光のように瀰漫しているのだ。

 行く手に現れた大きな両開きの扉を抜けると、深紅の絨毯を敷き詰めた明るい広間へ出た。整然と並んだ円卓と椅子に屈強なヴィオルたちが雁首を揃えて、豪勢な晩餐を貪っている。酒とガーシュの匂いが辺りへ立ち籠め、派手な笑い声が間欠泉の如く響き渡って室内の空気を震撼させる。その賑やかな宴席へ紛れ込んだ場違いな珍客の顔を、臓物すら抉り出しかねない鋭利な眼差しが縦横に斬り裂いた。

「待っていたよ」

 一番奥まった席に陣取っていたコートフェイドが、蒼白い指先で酒杯を支えたまま、落ち着いた声音で二人に呼び掛けた。粗野な談笑が途切れ、息詰まるような沈黙が晩餐の食卓を呑み込んでいく。

「先ずは一献傾けたまえ」

 空席を勧めるコートフェイドの顔を睨み据えて、フェロシュが吼えるように言い捨てた。

ヴィオルの酒なんか、不味くて呑めたもんじゃないわ」

 凍えるような憎しみに満ちた挑発に、緊張を孕んだ沈黙が俄かに綻びた。熱り立った罵声と共に酒杯の倒れる音が響き、今にも掴みかからんばかりの勢いで立ち上がる者もいた。

「控えろ。こいつらは、家頭の客だ」

 殊更に声を荒らげるでもなく、沈着な物腰を保ったままでコートフェイドは部下の狂瀾を制した。改めてフェロシュの研ぎ澄まされた双眸を見凝め、ゆっくりと唇を歪める。その瞳には、濃縮された悪意が黒曜石のような輝きを秘めて沈み込んでいた。

「君もヴィオルの娘だろう。穢れた血と罵れば、その報いは君自身にも跳ね返る」

「あたしはもうヴィオルじゃない。過去は捨てたの、あんたたちの所為でね」

 蔑みを帯びた忍び笑いが、打ち壊された宴席を漣のように駆け抜けて広がっていった。あの紅髪の女、ソルトビル家の娘らしい。大兄が昔、何処かの軍務官に妾として売り払ったそうだ。要するに、惨めな売女崩れか。その分際で、よくあんな大口が叩けるもんだ。後で犯しちまうか。

「積年の怨みという訳か。まあ、別に構わんさ。憎しみと怒りは、我々の商売には付き物だからな」

 密やかな嘲弄に憤怒を滾らせて周囲を睥睨するフェロシュの横顔を、コートフェイドは蜜のように粘っこい眼で眺めた。

「だが君の親父も、悲劇は織り込み済みで、ヴィオルという生き方を選んだのではなかったのか? 力及ばず、敗残を喫して、それを恨むのは潔い態度じゃない」

「血に縛られる筋合いはないわ。あたしの人生は、あたし自身のものよ」

「幼いな。人は、過去の鎖を断ち切ることなど出来ない。我々ヴィオルは、闇守の末裔たることを誇りに思っている。人間の栄光も衰微も、常に歴史の遺産と共にあるのだ」

 闇守の裔。その言葉が秘めている特別な意義を、ヴィオルの娘として育ったフェロシュは充分に弁えていた。アラルファンの地下に潜み、残虐極まりないグリシオン人の侵略者どもと闘い抜いた闇守の血を引くことは、彼女にとっても紛れもない矜りである。然し、それは飽く迄も理念としての「闇守」の姿であって、現実には堕落と強欲と罪悪が、栄光に満ちた闇守の裔たちの日常であった。食い詰めた貧民を呪草農家に仕立てて虐使し、攫った女には朽ち果てるまで春を鬻がせ、刺激に餓えた不感症の富豪たちには賭場を誂えて、血塗れの泡銭を吐き出させる。官憲や公吏とも手を結び、収賄を繰り返して醜怪な共存共栄を謳歌する。そこには自由と独立を求めて身命を惜しまなかった祖先たちの遺風など、微塵も受け継がれていない。

「闇守の矜りを、悪事の免罪符に流用するのは止めてもらいたいわ」

 吐き捨てるフェロシュの紅髪が、不意に捲れ上がった。手近な椅子に腰掛けていた男が逞しい腕を伸ばして、彼女の毛髪を引き抜くように掴んだのだ。

「ソルトビルの娘風情が、ヴィオルの生き様を語るなんざ、百年早え」

「控えろ、ジラルヴァ」

 コートフェイドの警告に、眼の色を変えた男は従わなかった。野獣のように爛々と瞳を燃え立たせ、棍棒の如く鍛え抜かれた腕で捕えた獲物に、呪詛のような吐息を吹き掛ける。

「俺たちペンブロードは、純血の闇守だ。いいか、お前の親父とは格が違うんだ」

「格の違いなんて幻想だわ。この狭苦しい世界の中でしか通用しない物差しを、偉そうに振り翳すのは止して」

「狭かろうが何だろうが、此処が俺たちの生きるべき世界だ。裏切者に説教される筋合いはねえ」

「裏切者?」

「闇守の血を受け継いでおきながらアラルファンを見捨てた売女に、ヴィオルの矜りを語られるなんざ我慢ならねえんだよ」

 引き攣るような痛みを堪えて、フェロシュは男の憎悪に満ちた瞳を見凝め返した。裏切者。その不名誉な称号を理不尽な因縁だと一蹴するには、消え残った良心の呵責が劇し過ぎる。現に自分は累代の忠実な家来である影蜘蛛たちを見捨てて、故郷の土地を踏み締めることさえ長い間忌避してきた。闇守の系譜に呪縛された狭隘な社会を、生きるに値しない閉鎖的な世界として遠ざけ続けてきたのだ。図らずも急所を抉り抜かれた痛みは思いのほか深々と彼女の魂の奥底に潜んだ病巣を揺さ振り、景気のいい啖呵を萎れさせた。

「ジラルヴァ。繰り返すが、この女は家頭の客だ。文句があるなら直訴してみるがいい。お前にそんな度胸があるとは思えないが、邪魔はしないさ」

 嘲るような口調で釘を刺すコートフェイドの冷徹な眼光に、男は逞しい指先の力を緩めて、不満げに鼻を鳴らした。

「大兄。昔の戦利品に優しくしたところで、一体何になるって言うんです」

「今回は女衒の仕事じゃない。ムジークを殺る為の段取りの一環だ」

「アラルファンの問題に余所者の手を借りるなんて、俺には賛成出来ねえ」

「ジラルヴァ。誰がお前に意見を求めた?」

 凍てつくような眼差しを真っ向から浴びせられて、男の唇が遽しく閉て切られた。視線を逸らし、猶も小声で文句を呟きながら渋々席へ戻る。その従順な対応を見て満足げに頷くと、コートフェイドは高価な葉巻のガーシュに悠然と火を燈した。

「君もいい加減、大人の振舞い方というものを学んだらどうだ」

「余計な御世話よ」

「自分の寿命を態々縮めるような真似は、余り褒められた態度じゃない。上官を困らせるのは可哀想だと思わないか」

「さっさと本題に入らせて。あんたたちと議論する為に此処へ来た訳じゃないわ」

「心得ている。アラルファンの平和の為に一肌脱ぐ決意が固まったんだろう」

 森羅万象を見透かしているとでも言いたげなコートフェイドの声音に、フェロシュは侮蔑的な苦笑で応じた。アラルファンの平和。そんな麗しい御題目を唱えて平然としていられるほど、闇守十人衆の系譜に連なる者どもの驕慢は甚だしいということか。

「ペンブロードが滅びようが、イストリッターが滅びようが、本当はそんなこと、どうだって構わないの。だけど、ガルノシュの野望を看過する訳にはいかない。ヴィオルの娘としてではなく、殉国隊の残党として、あたしは自分の信念を貫き通す為に此処へ来たの」

 グルタエの痩せ衰えた面貌が脳裡を掠める。影蜘蛛への憐憫は恐らく、殉国隊士としての信念とは関係がない。ソルトビル家の「御寮様」に生まれつき、アラルファンの血腥い暗闇を揺籃代わりに育った彼女にとって、今回の決断は紛れもない「私情」に他ならないのだ。

「相変わらず、面倒な性格の女だな、君は」

 半ば呆れた様子で肩を竦めたコートフェイドは、葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら言った。

「理由は何でも結構だ。我々の為に働く気があるのなら歓待しよう。上で家頭が待っておられる。さっさと挨拶を済ませようじゃないか」