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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 3

 先に立って歩くコートフェイドの背中を追って、ラシルドとフェロシュは上階へ通じる螺旋階段を登った。大兄の権勢に威圧されて辛うじて暴発を踏み止まったヴィオルたちの敵意に満ちた視線が、背後から幾重にも折り重なって飛んでくる。

「余計な揉め事は避けるのが賢明だとは思わないのかね。君が我々に憎しみを向けるのは勝手だが、敢えて露骨に表に出す必要はないだろう」

 三階へ通じる最初の踏み段へ足を掛けたところで、コートフェイドが前を向いたまま口を開いた。

「あんたに説教される筋合いはないわ」

 先刻の衝突の余燼を燻らせたまま、頑なに突き放すフェロシュの狷介な態度に、彼は深い溜息を吐いて首を横に振った。

「血気盛んなのは相変わらずだな。君が飼い主の軍務官一家を皆殺しにしたときも、我々が火消しにどれだけ手間取ったか、知らないだろう」

「そんなの当然の報いよ」

 思わず高ぶりそうになる感情を無理に抑え付けて、フェロシュは呪詛に満ちた言葉を絞り出した。対立する闇守の末裔を武力で殲滅し、幼い家頭の娘を攫って帝都の軍務官へ妾として売り渡すような連中に、不平を述べる資格などない。罪業の報いは必ず己の身に跳ね返り、血肉を焼き焦がすものなのだ。そこまで考えて不図、彼女は眼を細めた。罪業の報い、それはソルトビル家を滅亡へ追い遣ったペンブロード家の領袖たちに限られた話ではない。フェロシュ自身、殉国隊の一員として戦場を駆け巡る間に、夥しい数の人命を一方的に奪い、捻り潰してきた。それらの殺人が総て「聖戦」の正当な代償だと言い張る自信はない。

「当然の報いか。別に反論する積りもない。だが今は、もう少し謙虚に振舞った方が身の為だ。家頭は随分気が立っておられるからな」

 艶やかに磨かれた長い廊下の突き当たりに、ペンブロード家の総帥であるグラムホールの居室はあった。黒い板張りの床に、啌気燈が仄明るい灯影を垂れている。歩廊の壁には歴代の家頭を描いた絵画がずらりと並んでおり、居室に最も近い壁には「闇守十人衆」の一人で、黄駿戦争の砌、官兵と闘って数々の武勲を挙げた初代家頭ペンブロードの肖像が掲げられていた。「闇守の裔」であることに深い矜持を懐く彼らに相応しい画題であると言えるであろう。

 コートフェイドが控えめに扉を叩くと、懶げな応えがあった。手入れが行き届いているのか、扉は蝶番を軋ませることなく滑らかに開け放たれ、広々とした部屋の床一面に敷き詰められた華美な絨毯が視界を領した。アラルファン西方の都市ユリールで盛んに作られているリファイナ織の敷布であろう。織り込まれた図案は、密林の梢から飛び立とうとする霊鳥を多彩な色糸で表現した古典的なもので、コントラ湾沿岸の広範な地域に根付く虹光鳥信仰の産物である。ターラー教を忌み嫌うヴィオルが、エルナ神領の霊鳥を重んじるのは一見すると奇異な話だが、虹光鳥の伝承は古代エルナリア帝国の時代から受け継がれてきた土着の神話であり、グリシオン人の開創したターラー正教会が発祥ではない。アラール人の神話は虹光鳥を、闇に覆われた大地に夜明けを齎す神の使いとして描いており、幸福と希望の象徴とされている。度し難い罪業に身を染めるヴィオルたちが稀少な信心を捧げる相手としては、最も無難な偶像なのだ。

「家頭、殉国隊の残党を連れて参りました」

「御苦労。そこに座るがいい」

 革張りの長椅子に脂ぎった巨体を埋めた家頭のグラムホールは、野太い葉巻のガーシュを燻らせ、弛んだ顎を掌で摩りながら緩慢な口調で言った。目の詰んだ口髭は隅々まで黒く、嵩のない頭髪は畝のように鬢付け油で撫でつけてある。抗争の最中に失ったのであろうか、右耳が丸ごとない。纏っているのは鋼線を縦横に編み込んだ臙脂色の衛士袍(えじほう)で、眼前の卓子には鍔のない短刀が無造作に転がっていた。恐らくは出陣の仕度であろう。

「お前らも巻き込まれちまって災難だな。殉国隊のラシルドとフェロシュよ」

 向かいの長椅子に腰掛けた二人の顔を真っ向から見据えて、グラムホールは老いを感じさせる重厚な口籠り声で言い放った。

「話はコートフェイドから聞いてるんだろう」

「アラルファンの秩序を守る為に、我々の力を借りたい。そのように理解している」

 ラシルドが落ち着いた口調で答えると、グラムホールは下顎の贅肉を波打たせて馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「ふん、上出来な答えだな。その通り、確かに今回の襲撃はアラルファンの乱れ切った秩序を立て直す為の大博打だ」

「乱れ切った秩序?」

 眉根を寄せて呟いたフェロシュに、家頭は弛んだ瞼に埋もれた糸目を向けて唇を舐めた。

「今更、腐り切ったこの街にどんな薬を打ったところで、回復の見込みはない。そう言いてえのか、御嬢ちゃん」

「分かってるなら、自分の発言を恥じるべきね」

「噂通り、気の強い女だ。お前、ダイアイスの娘らしいな」

「だから何だって言うの」

「曲がりなりにもヴィオルの娘なら、アラルファンの秩序が誰の手で保たれてんのか、知らねえ訳じゃあるめえ」

 葉巻の煙を旨そうに吸い込む家頭の脂ぎった面貌を、フェロシュは静かに睨みつけた。言いたいことは山のようにある。思い浮かぶ罵詈雑言の豊富さはそのまま、蓄えられた憎悪の底知れない濃密さの表れだ。

ヴィオルの力で、この街の秩序は保たれてる。そういう詭弁に、あたしが大人しく頷くとでも思ってるのかしら」

「お前が頷こうが頷くまいが、俺の知ったことじゃねえ。事実は事実だ。いいか、イストリッターの首斬りどもは、抱え込んだ飼い犬の首に鎖を繋ぐ術も弁えてねえ阿呆揃いだ」

 グラムホールの口から忌々しげに吐き出された「首斬り」という呼び名は、元々刑場の番人としてアライシャー公家に仕えていたイストリッター家の悪意に満ちた蔑称である。同じくペンブロード家にも「皮剥ぎ」という異名があり、畜類の屠殺や皮革の製造に携わってきた伝統がその由来となっている。

「ムジークという呪刀士がいる。首斬りどもの食客だ。こいつが来てから、アラルファンの秩序は大いに乱れ始めた」

 白っぽく変色した眉を顰めて、グラムホールは煮え滾る憎しみの片鱗を吐き出すように言った。

「誰が引き込んだのか知らねえが、流れ者の分際で矢鱈と腕が立ちやがる。昨夜、俺の可愛い娘を、ティリアを連れ去った。みっともねえ話だが、うちの若衆どもにムジークと対等に遣り合える腕利きはいねえ」

「だから徒党を組んで殴り込もうって魂胆なのね」

「悪いか? あの首斬りの飼い犬は、一番手を出しちゃいけねえもんに手を出した。裁きを与えてやんなきゃ、この地下の窖の秩序が崩れちまう。誰にも文句は言わせねえ」

「イストリッターの屋敷に殴り込めば、秩序も糞もなくなるわ」

「そんなことは、お前に言われなくたって分かってるさ」

 抑えていた憤怒が不愉快な記憶と共に甦ってきたのか、グラムホールの指先は小刻みに顫え、その瞳には爛々たる野獣の光が鬼火のように燈っていた。

「真っ当なヴィオルなら、呪刀士なんかの世話になるのは屈辱だと嫌がるもんだ。お前らに助太刀を頼むのも、俺の本意じゃねえ。コートフェイドが駄々を捏ねなきゃ、義勇軍の残骸ごときに頭を下げる積りもなかった」

「随分な言種ね。別に今からでも間に合うわよ、断るのなら」

 フェロシュの冷淡な皮肉には全く耳を貸さず、グラムホールは卓子に置かれた鍔のない短刀を手繰り寄せて苛立たしげに呟いた。

「俺たちヴィオルは、呪刀なんかに頼っちゃならねえんだ。先祖伝来の暗刃を使うのが、俺たちの掟であり、矜りだからな」

 小振りの鞘から抜き放たれた刀身は、部屋の灯りを照り返して不吉な燦めきを放った。毒を仕込めるように細い溝を幾つも刻んだ暗刃は、アラール公国の時代から受け継がれる闇守たちの伝統的な武具である。当時の国法は闇守が呪刀を所持することを禁じており、特産品のアラール・エルザルは公国の正規軍に限って支給される決まりであった。被差別の証であった暗刃が長い歴史の転変を経るうちに何時しか、闇守たちの矜持の象徴に姿を変えたのである。

「イストリッターは闇守の矜りを見失ってやがる。野望を成就させる為なら、手段は選ばねえのさ。子飼いの連中に呪刀術を仕込もうと、大枚を叩いて流れ者を養ってるらしい。節操も何もありゃしねえ。彼奴らが同じ闇守十人衆の末裔だと思うと、恥ずかしくって涙が出るぜ」

 心底腹立たしい様子で、グラムホールは抜身の艶やかな暗刃を振り翳し、虚空へ一閃させた。風を切る鋭利な唸り声は、齢を重ねても衰えることを知らぬ闇守の魂を証しているように、フェロシュの耳には響いた。

「揚句の涯には、飼い犬の躾もなっちゃいねえのか、可愛いティリアを拐かしやがった。それも此れも、首斬りどもが闇守の裔として重んじなきゃなんねえ道義心を忘れたのが大元の原因だ」

「あの綺麗な女の子を拐かしたのは、そもそも皮剥ぎの女衒でしょ」

「あんな時化た村で野良着を纏って泥に塗れてるより、よっぽど恵まれた生活だろうさ。俺は相応の対価を、ティリアの為に何年も支払ってきた。それを見す見す横取りされたんじゃ、腹の虫が治まらねえのも当然だ」

 一向に悪びれた様子を見せないグラムホールの独善的な言い分に、フェロシュは苦り切った顔で俯いた。アラール公国の滅亡以来、五百年の長きに亘って闇守十人衆の栄光に胡坐を掻き、好き勝手な所業を積み重ねてきた累代の血脈が、そう簡単に革まる筈もない。いっそ何もかも打ち壊してしまった方がいいのだろうか。安易な郷愁に釣り込まれて、アラルファンを崩壊から救おうなどと考えるのは却って、この街の未来を損なう選択なのかも知れない。

「俺は首斬りどもに使いを送った。幾ら大事な娘を奪われたからって、直ぐに兵隊を殴り込ませるなんざ、ペンブロードの家頭が遣ることじゃねえからな。うちと彼奴らが本気で抗争を始めりゃ、血が流れるぐらいの騒ぎじゃ済まねえ。街ごと滅びちまうに決まってる。だからこっちも歯を食い縛って、穏当に話し合いで片付けようと思ったんだ。ところが、あのムジークという下種野郎が、うちの使いを問答無用で叩き斬りやがった。信じられるか? 彼奴は俺たち皮剥ぎの家名に泥を塗ったんだ」

 憤激の余り、遂に頭の血管が千切れてしまったかのように、グラムホールは束の間言葉を詰まらせ、卓子の縁へ力任せに立派な拳を叩きつけた。陶製の灰皿が宙に浮いて引っ繰り返り、葉巻の燃え滓が高価なリファイナ織の絨毯へ飛び散った。

「もう堪忍ならねえ。穀潰しの野良犬に手を咬まれて黙ってられるほど、俺は温厚じゃねえんだ。首斬りどもの手に負えねえのなら、俺たちが自ら鉄鎚を下してやるしかねえ。いいか、お前ら」

 長椅子から身を乗り出したグラムホールの血走った双眸は、殺伐とした血讐の欲望に覆われていた。

「ムジークの野郎を捕まえて、俺のところに引っ立てて来い。直々に、刑を下してやる。その呪刀が飾りもんじゃねえってことを、確り証明してみせろ。分かってると思うが、しくじったら只じゃ済まさねえ。直ぐにでも警事局に売り払ってやるからな」