読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 4

創作「刃皇紀」

「凄まじい剣幕だったな」

 静まり返った黒い板張りの廊下を別室へ導かれながら、ラシルドは複雑な苦笑を口許に滲ませた。幾らコートフェイドが抗争の忌避を画策したとしても、絶対的な権力を有する家頭が強硬な方針に固執する限り、両家の血塗られた衝突を免かれる道はないであろう。

「闇守十人衆の時代からずっと、首斬りと皮剥ぎは好敵手の関係を続けてきた。面子に拘る家頭が、こんな手酷い侮辱に大人しく黙り込んでいられる筈もない」

 如何にも気鬱な表情で答えるコートフェイドの横顔に板挟みの苦衷を感じて、ラシルドは不覚にも若干の同情を覚えた。激情家の君主と喧嘩っ早い配下に取り囲まれて、少しでも穏便な未来を勝ち得る為に際疾い舵取りを強いられている彼の境遇が、嘗て殉国隊を指揮していた頃の自分自身の姿と重なり合ったのだ。

「狭い世界で争ってるのね。国中が大掛かりな陰謀に呑み込まれようとしているって言うのに、暢気な御身分だわ」

 ラシルドとは対蹠的に、飽く迄も冷淡な態度を革めようとしないフェロシュの嘲弄に、コートフェイドは肩を竦めてみせた。

「つまらんことに拘っているように見えるだろうな。だが、渦中の俺たちにとっては抜き差しならない重大な問題だ」

「攫ってきた女を余所者に横取りされたからって、戦争を仕掛けるのは馬鹿げてるわ」

「それだけ先方の挑発が巧妙だということだろう。厳密には、ムジークとその一党の手腕が、ということになる」

「調べは何処まで進んでいるの」

 フェロシュの問い掛けに、コートフェイドは無言で立ち止まった。

「お喋りな影蜘蛛が秘密を守り切れずに零したのか」

「零した? 貴方がそうするように仕向けたんじゃないの」

 闇守の忠実な下僕である影蜘蛛が、隠密に運ばれるべき任務の内容を堂々と口外する筈はない。ペンブロード家の蜘蛛頭シュタフェライの誑かすような物言いにも、敢えて此方の関心を惹こうとする態とらしい響きが備わっていた。彼らの不自然な言動に、古参の執事(家頭を輔弼するヴィオルの肩書)であるコートフェイドの関与と教唆を嗅ぎ取らぬ理由はない。

「解釈は、個人の自由だ。そう答えるだけに留めさせてもらおうか」

「勝手に巻き込んでおいて、今更白を切る積りなの」

「影蜘蛛の忠誠に絆されたのは、君の感情の問題だろう。俺には関わりのないことだ」

「相変わらず、身勝手な言い分ね」

 回り始めた歯車を押し留める術がないことは、フェロシュ自身、痛いほど思い知っていた。ムジークという男が、アラルファンの闇守たちの分断を意図して送り込まれたガルノシュの走狗なのだとしたら、コートフェイドが積年の怨敵であろうと、涼しい顔で手を退く訳にはいかない。

「時間は限られている。議論は後回しだ。今後の段取りを確認しておこう」

 幾度も角を曲がって辿り着いた両開きの扉にも、狼の髑髏の紋章が黙然と一行を待ち受けていた。蝶番を軋ませて開け放たれた扉の向こうには殺風景な大広間が横たわり、部屋の中央に置かれた矩形の巨大な机の傍に、見知らぬ人影が寄り添うように佇んでいる。

「待たせたな、ネルイガー。お前の敵娼(あいかた)を連れてきたぞ」

 名前を呼ばれて振り向いた男の顔には、明瞭な特徴が刻まれていた。目映い柑子色の瞳に鮮やかな蜂蜜色の頭髪は、彼が南部地方に暮らすバルジク人の血を引いていることを物語っている。腰に帯びた呪刀の鞘に描かれている唐草の紋様は、アラール・エルザルの装飾ではなく、南部の中心都市ティゴールで古くから生産されているクイナ・メディールの象徴である。

「あたしたちの他にも、巻き添えを喰った流れ者がいたのね」

 男の風体を仔細に観察しながら、フェロシュは冷ややかな口調で言った。

「君たちだけでは心許ないと思ってね。保険を掛けておくに越したことはない」

「そんな腕利きなのかしら」

「彼はレウ・パシニア広域管理軍の出身だ。ガルノシュの飼い犬を始末するには手頃な人選だと思わないかね」

「どうだか。足を引っ張られることがないように祈っておくわ」

 イシュマールから海岸線に沿って南へ下ると、西のコントラ湾と東のディラム湾を隔てるように横たわるバルフェル地峡へ辿り着く。地峡を越えて更に南進すると、嘗てはボルゼエレ帝国の版図であった広大なレウ・パシニア(南パシニア)が姿を現す。

 ボルゼエレ帝国は今から二二〇〇年前にバルジク人が創建した国家で、長年レウ・パシニアの大地に君臨してきた老大国であった。黄駿帝の御世にアラール公国を服属させた緑邦帝国は、次なる野心をボルゼエレ帝国の征圧に向け、黄駿帝の跡目を継いだ黒剣帝クセルーザがその陣頭指揮を担った。帝室史上、最高の軍才の持ち主と讃えられる武断的な君主は、戴冠式を終えると直ぐに亡父の遺言に従って南征の計画に着手し、イシュマールの郊外へヴィリアン城砦を、カリスタの東方へチェデス城砦を遽しく建設して兵站を整え、出兵の機会を窺った。バルフェル地峡南端のスリーガ高原でボルゼエレの騎兵隊に大勝したのを皮切りに、黒剣帝の率いる軍隊は快進撃を続け、ヴェロナ半島の沖合で行われた第一次コントラ湾海戦に勝利を収めると、一挙に帝都ティゴールを落城へ追い込んだ。敗北を喫したボルゼエレの王族は近衛に守られて南方へ落ち延び、義勇兵を募って緑邦帝国の侵略に対する徹底抗戦を嚮導した。黒剣帝の戴冠から二十四年後の盛夏、最後の君主パルツェル大王が、大陸南部のオイクダス洋に面する軍都コーレヘムで病死したのを契機にボルゼエレ帝国は滅亡し、長過ぎた戦乱にも漸く終止符が打たれた。

「挨拶ぐらいしておけ。戦場での仲違いは、命に関わるからな」

 コートフェイドに促されて、両者は躊躇いがちに歩み寄り、儀礼的な握手を交わした。柑子色の瞳を悪戯っぽく煌かせて、バルジク人の若い呪刀士は作り物の笑顔を浮かべた。

「ネルイガーです。オンプラムから来ました」

「ラシルドだ。イシュマールから来た」

 握り返したネルイガーの手は如何にも軍人らしく節榑立ち、その薄ら笑いを滲ませた口許にも油断のない緊張が隅々まで行き渡っていた。男の詳しい素性は分からないが、足を洗った軍人さえもアラルファンの命運を左右する抗争に引き摺り込んでしまう辺り、コートフェイドの手腕には瞠目すべきものがある。

「本題に入らせてもらおうか」

 机の端に掌を突いて、コートフェイドは集まった三人の呪刀士の顔に、射るような眼差しを順繰りに滑らせた。途端に部屋の空気は張り詰め、館内に瀰漫する火花のような戦意が総身を刺した。

「家頭の御言葉にもあった通り、俺たちヴィオルは伝統的に呪刀術を好まない。父祖の時代から受け継がれてきた暗刃を用いるのが、一族の流儀だ。首斬りどものように、流れ者の呪刀士を雇い入れるのは本来、俺たちの主義に反している。だが今は、そんな生温いことも言ってられない。さっさとムジークを仕留めねば、抗争は激化する。アラルファンの結束と秩序が緩めば、もっと厄介な連中が雪崩を打って、この街に入り込んで来るだろう」

 血色の悪い痩せた頬が、あらゆる矛盾を抱え込むように波打つ。その荒んだ横顔を見凝めながら、フェロシュは歯を食い縛った。何が真実なのか、どんな絡繰が潜んでいるのか、入念に探っている時間はない。何れにせよ、ペンブロードの皮剥ぎたちは怒りに血潮を沸き立たせて、首斬りの根城へ殴り込む決意を固めているのだ。本気でムジークの正体を暴くのなら、机上の空論を捏ね回すよりも本人の首根っこを掴まえて問い質した方が余程建設的であろう。

「本来ならば、抗争などという選択肢を取るのは望ましい話じゃない」

 机の上に広げた市街地の略図へ指先を這わせながら、不意に発せられたコートフェイドの呟きは、雨垂れのように静謐であった。

「家頭も、理窟では分かっているだろう。イストリッターと干戈を交えても、良いことは何もないと。だがティリアが絡めば、そんな理窟は蒸発してしまう。俺の個人的な意見としては、両家の友誼の為に、あの女を贈り物として捧げるのも、悪い話じゃないと思っている。酷い仕打ちだが、固より高値で売れる女だ。向こうも粗笨に扱うことはすまい」

「馬鹿げたことを」

 性根の腐り切った男だと心得ていても猶、割り切れぬ感情の余燼を取り除くことが出来ない。フェロシュは机の端を劇しく叩いて、野獣のように顎を突き出した。

「女は物じゃないのよ。未だ分からないの」

 憎悪を露わにした瞳で詰め寄る彼女の襟首へ、コートフェイドの長い腕が猛禽のように素早く伸びた。鼻先が触れ合うほどの距離で荒い息を吐きながら、呪詛に満ちた彼の双眸は暗く沈潜した輝きを放った。

「分かっているさ。だが、それが我々の商売だ。お前もヴィオルの娘なら、湿っぽい繰り言は止せ。女に春を鬻がせるのが罪なら、戦場で官兵を斬り殺すのも同じように罪ではないのか」

「あんたたちは私利私欲の為に女を飼い馴らす。私たちは、国家の未来の為に剣を揮う。同じ罪人でも、格が違うわ」

「詭弁だ。自分は清廉な罪人だと言い張りたいのか? 肥溜のようなアラルファンの闇で産声を上げた俺たちに、格の違いなどありはしない。誰だって皮を剥げば血が流れる。肉を裂けば、白い骨が見える。罪悪を免かれ得る人間など、この地上には存在しない。いいか、フェロシュ。一人の女の不幸でアラルファンの闇守たちの幸福が購えるなら、安い買い物だ。お前だって、無名の官兵の屍の上に国家の平穏が築かれるなら、安い買い物だと勘定していたんじゃないのか」

 眼を見開いて、咬み締める唇から、金臭い血の味が滲んだ。違う。あんたたちとは違う。そう訴えたいのに、己の正義を語る為の言葉が、上手に紡げない。その喘ぐような葛藤を察したように、コートフェイドの頬へ禍々しい笑いが褶曲した地層の如く浮き上がった。

「図星か。俺を毛嫌いするのは道理だが、善人みたいな面構えは遠慮しておけ。地を這う豚が、鷲の真似をして空に憧れても精々、鼻息が荒くなるぐらいのものさ」