読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 5

 深沈たる夜気に包まれたアラルファンの街路を、三人は黙々と歩き続けた。疎らな啌気燈に照らされて、漏れ出す吐息が白々と光る。

「後悔はしないな」

 低い声で不意に問い掛けられて、フェロシュは鋭い視線をちらりと放った。

「今更、悔やむことなど何もありません」

「ムジークを仕留めれば総て丸く収まると、本気で信じているのか?」

 ラシルドの言葉に、フェロシュは即答を避けて暗い路地へ目線を転じた。その寡黙な横顔を密かに確かめながら、ラシルドは沈鬱な溜息を零さずにはいられなかった。グラムホールの沸騰した理性を今更、沈着な判断へ導き入れるのは確かに至難の業だ。この期に及んで、襲撃から離脱しようと考えても、火の海に変わるであろうアラルファンの不幸な命運をフェロシュが見限れる筈もない。だが、此れが危険な博打であることに変わりはない。ムジークをすんなり仕留められたとしても、一旦火蓋の切られた抗争を穏便な決着へ着地させるには、果てしないほど多くの時間と労力を代償として支払わねばならないであろう。

「細かいことを言っても始まらないか」

「ええ。そういうことです。決意を揺さ振るようなことは、言わないで下さい」

 冷淡に一蹴され、ラシルドは大人しく口を噤んだ。彼女の胸底を混迷へ誘い入れるような言種は、確かに控えるべきだ。人目につかぬよう歓楽街を避けて、寝静まった宅地を縫うように走る小路を往きながら、彼は逡巡を払い除けるように俯いて首を振った。

 イストリッター家の邸宅は、市域北西部のパーヴォ地区に位置している。丁度、闇守の双璧であるペンブロード家とは、市域の中心を南北に縦断するトラーギア大路を挟んで、広げた二つの翼のように向かい合っており、アライシャー地区の官庁街で働く役人たちにとっては、その勢力圏は忌まわしいことこの上ない配置を取っている。両側から挟み込まれるように闇守の縄張りに囲まれて息を潜めるしかない彼らの窮境に憤懣を禁じ得ず、帝都の高官が刺客を放って閉塞する現状の打開を図るのも、考えてみれば当然の成り行きなのだ。

「立ち入ったことを訊くようだが、君はどうしてヴィオルに雇われているんだね」

 意地を張って頑迷な沈黙に閉じ籠もってしまったフェロシュの態度を軟化させることは諦めて、ラシルドは傍らを往くもう一人の同胞に声を掛けた。晩夏の夜風が齎す冷え込みに堪えかねるように外套の襟を掻き合わせたネルイガーは、柑子色の瞳を俊敏な栗鼠のように動かして肩を竦めてみせた。

「恥ずかしながら、旅費が尽きちゃいましてね。皿洗いよりは稼げるだろうと、ヴィオルの誘いを受けたんです」

「旅の途中かね」

「帝都に人を訪ねていくところですよ」

「奇遇だな。私たちも、帝都へ向かう途中だ」

「へえ。どういう御用なんです?」

 然り気なく差し出された簡潔な問い掛けの裏に、巧みに他人の事情を詮索して引き出そうとする狡智を感じて、ラシルドは返答を躊躇った。常識的に考えて、闇守同士の血で血を洗う凄惨な抗争に、真っ当な堅気の人間が巻き込まれて涼しい顔をしていられる筈もない。迂闊に此方の置かれている立場を漏らせば、どんな惨劇の火種となるか知れたものではないのだ。

「余り口外するような中身じゃない」

「おやおや、猶更、奇遇だな。俺も人には言えない理由ですよ」

 話を逸らされても、特に失望も苛立ちも感じた様子のない顔つきで、ネルイガーは明朗な笑みを浮かべた。本性を蔽い隠す為の芝居だとしたら、若い割に随分と堂に入ったものである。

「仇討でもするのかい」

 試みに投げ与えた餌のような言葉に、ネルイガーの柔和な表情が刷毛を滑らせたように忽ち凍りついた。

「鋭い人だな。やっぱり堅気じゃないんですね」

「堅気だったら、こんな仕事に手を出したりはしないさ。君だって同じだろう」

「まあ、御互い様ということですかね」

 言葉を濁すように呟いたネルイガーの佩刀に、ラシルドは俊敏な視線を滑り込ませた。羊の鞣革を用いた純白の鞘から黄金色の柄が突き出ている。柄頭に嵌め込まれた黄緑の宝珠など、如何にもボルゼエレ帝国の遺風を感じさせる豪奢な趣味だ。世間の暗がりを好んで徘徊する無頼漢には相応しくない得物だと言わざるを得ない。

「上物の呪刀を使ってるんだな」

 探りを入れるように放った問いにも警戒心を煽られることなく、ネルイガーは無邪気な少年のような素直さで相好を崩してみせた。

「ティゴールには、ボルゼエレ帝国の御世から続いている老舗の呪刀屋が沢山あります。この呪刀は、親父の知り合いのワイヴァリエという名人が拵えた逸品なんですよ。最高級の橙重鉱を贅沢に使って呪象強度を高く仕上げているのに、呪象点は確り抑えてある」

 鞘の表面を指先で慈しむように摩りながら誇らしげに語り始めた横顔には、世間の裏街道を歩いてきた人間に固有の澱んだ翳りが見当たらなかった。そもそも血腥い仕事の為に剣呑な雇い主の誘いに乗じるような人柄とも思えない。ティゴールの老舗から呪刀を仕入れる目利きの父親を持っていることを鑑みれば、差し詰め金持ちの家に生まれた放蕩息子であろうか。

「余計なことだろうが、私怨に駆られて、ヴィオルの巣穴へ嘴を突き入れるのは止した方がいい。要らぬ恨みを買えば、今度は君が命を狙われることになるぞ」

 稚気を残した青年の面差しに老婆心を刺激され、今更手遅れだと知りながらもラシルドは忠告を発した。長大な歴史の濁流に押し流され、野望と憎しみに振り回されながら苛烈な境遇を生き抜くヴィオルの世界に、親の脛を齧り過ぎて世間の脇道へ逸れてしまった程度の暢気な不良が関わり合うのは、悲劇的な茶番の種にしかならないであろう。

「御言葉ですが、俺は子供じゃないんだ。赤の他人に心配される筋合いはありませんよ」

 飽く迄も朗らかな顔つきとは裏腹に、紡ぎ出された答えは思いの外、硬質な手応えを漲らせていた。

「彼らが真っ当な連中じゃないのは勿論心得てます。見す見す呑み込まれる積りはない」

「そうか。要らぬ世話だったな」

 短く答えてラシルドが話を断ち切ると、ネルイガーは肩を竦めて不満げに暗い街路へ視線を引き戻した。

 

 パーヴォ地区に足を踏み入れて間もなく、十一時を告げるアラルファン聖堂の時鐘が、市内に響き渡った。敬虔なターラー教徒は毎夜、この鐘声に合わせて帝都の方角へ静謐な祈りを捧げる。「霜刻礼(そうこくれい)」と称するこの宗教的慣習は、初代正教主エクリウシスの没した時刻が夜の十一時であったという古伝に由来しており、神帝ターラーの聖隷として正教会を開創したエクリウシスへの崇敬と哀悼を示す重要な儀礼として、五百年以上も脈々と受け継がれている。

 イストリッター家への襲撃は、深夜零時を告げる時鐘を号砲とする段取りとなっていた。霜刻礼の鐘声が肌寒い夜風に吹き散らされ、寝静まった街路へ霞のように消え入ると、息詰まるような沈黙が再び辺りを領した。この一帯の隧道は総て、イストリッター家に仕える影蜘蛛たちの縄張りであるから、ペンブロード家の人間が地下の暗闇へ身を潜めることは出来ない。散り散りに地上の物蔭へ身を隠し、邪悪な蛇の如く夜の底を這い回りながら、無数の暴漢たちは靴音を忍ばせて深更の時鐘に耳を澄ませている筈であった。その抑制された息遣いが夏の夜風に紛れて、波打つ草原の騒めきのように三人の総身を粟立たせていた。

「あんたたちは、そんなに凄腕なのか」

 歩き続けるうちに少しずつ余裕を失い始めたように見えるネルイガーの声は、来るべき抗争の不吉な予兆に押えつけられたのか、低く掠れていた。

「どういう意味よ。鈍(なまくら)に見えるってこと?」

 凍えるような冷ややかさで振り返ったフェロシュの視線に、ネルイガーは双手を挙げて大袈裟に仰け反ってみせた。

「コートフェイドと言い合ってただろう? 幾ら肝が据わっていたって、ペンブロードの重役とあんな風に罵り合えるなんて普通じゃない。古い付き合いなのか」

「腐れ縁よ。本当は顔も見たくない相手なの」

「顔も見たくないのに、手を貸すのか」

「貴方にそんなことを問い質される筋合いはないわ」

 頬を平手で打つような苛烈な口調で、フェロシュはネルイガーの問い掛けを邪険に払い除けた。軽率な好奇心に基づいて、思い出したくもない過去の因縁を蒸し返され、突き回されては堪らない。

 幾つも角を折れ、獲物に狙いを定めた山猫のように闇に溶けた路地を進んでいくうち、視界の彼方に黙然と聳え立つ立派な屋敷が姿を現した。夜空へ伸びる尖塔の頂には、イストリッター家の象徴たる断頭台の紋章が燈光を浴びて禍々しく輝いている。黙って振り仰ぎ、鋭利な視線を注ぎながら、フェロシュは唇を咬み締めた。傍から見れば悪質な犯罪者の集まりに過ぎないヴィオルの頭目が、高級な宅地の一隅に堂々と壮麗な邸宅を構え、一族の家紋を堂々と掲げて恥じることも知らない。こんな醜態が罷り通ること自体、この街の腐敗と堕落の象徴に他ならないと言える。確かに彼らの祖先が、母国の独立と誇りを守り抜くべく死力を尽くしたことは事実だが、その結果としてアラール人の自尊心が望ましい形で保全された訳ではない。結局のところ、アラール公国の自治は崩壊させられてしまったし、グリシオン人の政府から派遣された行政官がアラルファンにおける階級的な秩序の頂上へ君臨していることは紛れもない事実なのだ。地下の窖で貧窮を強いられる同胞を見限り、政府の役人と秘密裡に手を結んで甘い汁を貪り、血腥い地上の栄華を謳歌しているヴィオルどもに、失われた闇守の威光の残影を見出すのは馬鹿げた倒錯に過ぎない。

 だとしても、後戻りは出来ない。一体、この堂々巡りの煩悶に偏頭痛を覚えるのは今日だけでも幾度目になるだろうか。路地裏に穢れた鼠のように潜り込んで、萎びたガーシュに火を点けながら、フェロシュは眼を瞑って馥郁たる紫煙の苦味に意識を集中させた。歪んだ秩序であったとしても、総てを潰滅的な破局へ叩き込むのは危険な博打だ。国が壊れたとき、どれほど多くの深刻な惨劇が持ち上がるか、二十年前の経験を振り返れば答えは明白である。「春影帝の善政」という御題目で過ぎ去った苦難の日々を美化するのは個人の勝手だが、そんな綺麗事ばかりで今日の復興が成し遂げられた訳ではない。ガルノシュ・グリイスの活発な暗躍を指し示す断片的な証拠の数々を鑑みても、一度壊れた秩序を建て直し、千切れた紐帯を再び結わえることが如何に困難な道程であるか、どんな愚か者でも念入りに考えれば分かる筈だ。恐らくあの忌々しいコートフェイドでさえ、総てを渾沌に突き落とすよりも遥かに賢明で合理的な方法があると信じているに違いない。それが闇守の末裔の利権を末永く堅持する為であることは確実だとしても、少なくとも今は内輪揉めに貴重な時間を費やしている場合ではないのだ。

 一日の終わりと始まりを告げる、十二時の闌刻鐘(らんこくしょう)が鳴り渡るまでの冷え切った沈黙を、フェロシュは数本のガーシュと共に凝と遣り過ごすことに決めて、不機嫌な顔つきで外套の襟を掻き合わせた。