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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 6

創作「刃皇紀」

 ティリアは幼少の砌から、周りの人間に「美しい」と称讃されることに慣れ切っていた。

 帝国北部、ジルクラフとの国境に近いミスルカという田舎町から、東の山間へ分け入った傾らかな斜面に、彼女の生まれたトレダ村はあった。山腹を切り拓いて均し、痩せた土を耕して拵えた畑に穀類や根菜を植え付け、僅かばかりの収穫をミスルカの市場へ運び込み、二束三文で買い叩かれるのが村民の平均的な生計の立て方である。彼女の父母も、何代前からそうなのか遡っても分からないほどに年季の入った農夫の家系であった。一族の子供たちは性別に関わらず、物心がつく頃には畑仕事の手伝いや作物の運搬に駆り出され、華奢な手足を酷使して泥に塗れながら日暮れまで働き続ける。ミスルカの修学校へ通わせてもらえるのは村長の家の嫡男くらいのもので、教育を受けるよりも額に汗して収量の貧しい畑を耕し、親の苦労を少しでも軽減することが子供たちに課せられた一番の使命だと当たり前のように信じられていた。

 だが、ティリアは生まれつき病弱で、長く凍てつくような冬の間、北部地方の山岳地帯に断続的に降り頻る乾いた粉雪の如く白々と蒼褪めた肌は、度重なる発熱で四六時中、薄紅色に染まった。両親にとってティリアは最初に生まれた愛おしい長女であったから、灰色の憂鬱な空に粉雪が舞い始めると直ぐに咳き込み始める彼女に、苛酷な肉体労働の片棒を担がせようとは考えなかった。無骨な岩肌に打ち付けた鶴嘴が幸運にも掘り当てた美しい宝珠のように、二人は虚弱な娘を丁寧に慈しみ、ティリアが重い肺病を患ったときには方々から金を借りて回り、高価な薬代を工面する為に奔走した。

 その巨額の借金が利息という化け物を伴っていることに、動顛した両親は充分な注意を払う余裕がなかった。娘の命さえ助かれば後のことはどうなろうと構わないと思い詰め、ミスルカの性悪な高利貸にまで泣きついた結果、足許を見られて法外な金利を約束させられたのだ。頻繁に床へ臥せって畑仕事の役に立つこともない長女も含めて、五人の子供たちを養っていくには、彼らの稼ぎは余りに乏しく頼りなかった。

 そこへ現れたのが、ミスルカの高利貸よりも余程質の悪いアラルファンの女衒であった。先代の家頭ディオファルロの三男坊として勝手気儘な生活を送っていた当時のグラムホールが、美しい女の尻を追い掛け、買い漁ることを生き甲斐のようにしていた頃の話だ。後に二人の兄が相次いで抗争の渦中に息絶え、幸運にも家頭の地位がだらしなく開いた口の中へ勝手に転がり込んで来るまで、グラムホールは単なる色魔の放蕩息子に過ぎなかった。特別に賢い訳でも、人徳が秀でている訳でもなく、下っ端のヴィオルのように強欲で血の気が多い、幾らか自制心を欠いた駄々っ子として、実父からも半ば見限られていたのだ。

 ミスルカの高利貸が昔から付き合いのある地元のヴィオルに、借金の抵当として抑えれば旨い稼ぎになるんじゃないかと冗談交じりに話したトレダ村の美しい生娘の噂が、女衒稼業に精を出していたグラムホールの耳に入り、彼は早速北部地方の貧しい農村まで遠征に踏み切った。所謂一目惚れという奴で、ミスルカのヴィオルを脅しつけて引き下がらせ、彼女の両親が抱え込んでいた五〇〇万の債務を綺麗に清算すると、そのままティリアをアラルファンへ連れ帰り、囲い込んだ。

 それから早くも十二年の歳月が流れ去った。五〇〇万の債務と引き換えに売り払われてから、故郷の家族とは一度も顔を合わせていない。家頭に頼み込めば再会は叶わぬ夢でもなかったが、自分が置かれている境遇を鑑みると、どんな顔で両親に会えばいいのか分からず、迷い続けている間に時機を逸してしまった。

 女狂いの奴隷商人に過ぎなかったグラムホールは、ディオファルロの病死を契機に家頭へ伸し上がり、その潤沢な恩恵に与るような形で、ティリアは皇后のような暮らしを御膳立てされた。所詮は愛玩の為に飼われているだけだと思いながらも、湯水の如く費やされた巨額の金銭の力は、世間知らずの彼女の眼を晦ませ、殆ど失明に等しいような状態へ追い遣った。貧しい農家の娘という出自は、十歳のときから始まった豪華で奢侈を極めた生活によって削り取られ、跡形もなく消え去った。何時の間にか、自分はペンブロード家の一員であり、絶大な権勢を誇る家頭の寵姫であるという牢固たる自覚が、彼女の魂の中枢を占めるようになっていた。今更、昔日の貧窮に舞い戻ることなど出来ない。良くも悪くも、自分は故郷から切り離され、永遠に造花のような生活を送るしかないのだ。諦観とも絶望とも呼び得る、その黒々とした虚無的な感情は、今では彼女の生涯における忠実な伴侶と化していた。

「いい眺めだな、ティリア」

 不意に耳障りな、濁った声音が鼓膜へじっとりと染み入った。不快感に顔を歪め、可能な限り冷ややかに研ぎ澄ました眼差しを、声の主へ射込むように向ける。無駄な抵抗だと分かっていても、十年の歳月を費やして磨かれ、鍛え上げられたヴィオルの矜持は、陋劣な男への屈服に堪えかねて軋むことを止めようとしなかった。

 

 ティリアは美しい女であった。

 少なくとも、ムジークが知る限り、最も美しく魅惑的な女であると言えた。ペンブロードの護衛に守られ、居丈高なグラムホールと連れ立って、アラルファンの繁華街を往く着飾った彼女の姿を初めて見たとき、彼は総毛立つような欲情を覚えた。透き通る純白の肌に、鮮やかな生傷の如く花開いた紅色の唇。氷のように冷たく、物哀しい双眸。何もかも、彼の好みに適っていた。

 ガルノシュ・グリイスを雇い主に選んだのは、単なる偶然の結果に過ぎなかった。十六歳のとき、ジルクラフ公国のヴィオルから請け負った暗殺の仕事を皮切りに、様々な悪事に手を染めながら、大陸全土を渡り歩く流謫の日々を送ってきたムジークの内面に、明確な信念や政治的主張は何もない。彼が提供するのは抜群の剣腕だけで、その天賦の才能に様々な野心や思惑で彩りを添えるのは雇い主の勝手である。人を殺して飯が食えるなら、大義名分など何でも構わない。もう少し彼が勤勉で、人に言えない脛の疵をたんまり抱えていなかったならば、軍人として仕官することも選択肢の一つに挙げられたであろう。

 ヴィオルの巣穴へ潜り込み、紛争の火種を産み落として煽り立て、アラルファンに血も涙もない暴力の連鎖を巻き起こせ。偉大なる政務庁掌補ガルノシュ・グリイス閣下の懐刀である軍務庁掌のアブワーズから、救国の為と称して内密に授かった特命の内容にも、彼は然したる関心を寄せなかった。政治的な争いに巻き込まれるのは面倒だという思いが何よりも強く、余計な束縛を受けて勝手気儘な流謫の人生を妨げられるのも癪であった。だが、当時の彼は帝都の闇に巣食うヴィオルとの間に下らぬ揉め事を起こした後で、否が応でも強力な後ろ盾に庇ってもらう必要があった。春影帝の稀代の「御聖断」によって助命され、権謀術数の渦巻く宮廷の水面下を狡猾に泳ぎ抜いてきたガルノシュ・グリイスが後見人ならば、帝都の無頼漢たちも多少は蛮勇を惜しむであろう。彼はそう考えて博打に乗ることを選び、アブワーズの密命を帯びてアラルファンへ潜入した。

 イストリッター家の食客として雇われ、頻発する小競り合いの度に冴え渡る剣腕を示すことで徐々に信頼を勝ち得ていったムジークは、アラルファンの内情を探ることに血道を上げた。最初は気の進まぬ役目であったが、固より社会の暗部に潜む「毒虫」たちとの付き合いには慣れている。帝都で諍いを起こしたヴィオルへの恨みを、相手を変えて晴らしておきたいという個人的な欲求も手伝って、彼は課せられた使命を果たすべく、日夜職務に精励した。その途次、偶然遭遇したティリアの美貌に魂を攫われて以来、彼の職務への情熱には一層の輝きが加わった。グラムホールの寵姫であるティリアを拐かせば、両家の隠然たる対立は忽ち巨大な山火事に発展するであろう。そういう提案を帝都の後見人へ自ら告げたのも、社会的使命と個人的欲望を抱き合わせて叶えてしまおうという邪な魂胆の反映であった。

 然し、手曳きを担うイストリッター家の古株の執事ラクヴェルと密かに進めていた略奪の計画は、アラルファン・ヴィオルの梟雄として君臨する家頭のハイディールから掣肘を受けた。闇守十人衆に連なる名流の中でも別格の地位を占めるイストリッターとペンブロードの絶妙な政治的均衡が、当地の秩序を支える重要な礎石であることは論を俟たない。その政治的安定を犠牲にしてまで、ハイディールは優秀な居候の個人的な欲望に寛大な理解を示そうとは考えなかった。そんなに疼くなら、股座の蛇を切り取って暗渠へ投げ込むがいい。刃物の扱いなら手慣れたものだろう。底意地の悪い冗談が、冗談のままに留まるとは限らないのが、数多のヴィオルを束ねる家頭の威光と権勢の恐ろしさである。筋金入りの裏事師(非合法の商売に従事する者の俗称)であるムジークは、ハイディールの説教を足蹴にしてみせる暗愚な勇気など望まなかったし、何より執事のラクヴェルが震え上がって尻込みをするので、腕尽くで押し通す訳にはいかなかったのだ。

 だが、萌した劣情は鎮まるどころか、日増しに力強く繁茂する一方であった。イストリッターへの宮仕えを始めて三年が経過し、食客の身分からダリーア(「家族・同胞」を意味するアラール古語)の幹部へ引き立てると言い出した家頭に、ムジークは功労の褒美を強請った。ティリアが、グラムホールの女が欲しい。あの女が、今の俺にとっては何物にも代え難い至高の報酬なのだ。略奪の許可さえ得られるなら、俺は断頭台の紋章に生涯の忠誠を捧げると誓うだろう。

 要らぬ揉め事を抱え込みたくはないと渋っていたハイディールも、ムジークの固陋な欲情に呆れ果てたのか、今度は去勢を強いる代わりに彼の願いを受け容れた。どれほど卓絶した美貌の持ち主であったとしても、たかが一匹の牝犬の為にペンブロードの家頭が理性を放擲するとは考えていなかったのであろう。

「寛大な家頭様で助かったよ」

 ガーシュを吸いながら、ムジークは静かに呟いた。ハイディールは何も分かっちゃいない。この女の全身から滲み出る、異様なほどの色香の凄まじさを。彼の眼差しは、若枝のように撓る色白の四肢を大きな寝台に括りつけられた女へ注がれていた。負けん気の強い瞳で此方を野獣の如く睨み返しているが、仄見える一抹の恐怖が、砂糖の甘さを引き立てる為に投じられた一匙の塩のように、却って興奮を煽り立てるばかりだ。

「今更、辱めなど恐ろしくもないだろう」

 歩み寄り、滑らかに張った胸乳へ、蹄のように硬く罅割れた指先を押し当てる。薄い肌着を隔てて伝わる滑らかな肉の感触は、深井戸のように底知れぬ快楽を湛えていた。

「あたしはペンブロードの誇りを忘れていない。あんたに躰を弄られたって、何とも思わないわ」

 奥歯を食い縛り、唸るように言い放つティリアの健気な抵抗の表情を、ムジークは慈しむように凝と眺めた。

「そうやって言い張る辺りが幼稚だな、ティリア」

「どういう意味よ」

「何とも思わないなら、黙って嬲られていればいい。気高いお前に、堪えられることかどうか、実際に確かめてみようじゃないか」

 その言葉を聴いた途端、縄で縛られた甘い香りのする肢体が、密やかに強張るのが分かる。その姿にムジークは益々、尽きせぬ劣情を喚起され、下腹を貫く陶酔の感覚に荒い息を吐いた。冷え切った北辺の大地に蹲るように群がっている集落に育ち、借金の肩代わりと引き換えに売り飛ばされた貧家の娘という出自から、気弱な奴隷めいた性根を想像するのは大いなる過ちだ。年端も行かぬ頃から贅沢極まりない暮らしに耽溺させられてきた彼女の驕慢な気品は、家頭以外の穢れた男の指先に触れられることに強烈な屈辱を覚えて、色めき立っているに違いない。

「あんたは、最低の狗よ、ムジーク」

 猶も健気に睨み据えようとするティリアの華奢な顎を、ムジークは節榑立った指先で乱暴に掴んだ。

「名前を呼んでもらえるとは光栄だな、ティリア様」

 抵抗を打ち拉ぐ歓び。その突き上げるような陶酔に、総身の血流が焔の如く逆巻き始める。

「醜い流れ者の悪党に、その美しい躰を捧げて下さるのですね」

 慇懃な皮肉が、囚われた女の頬を憤激に火照らせた。鼻梁が擦れ合うほどに近付けた唇から、追い詰められた者に固有の掠れた息遣いが伝わってくる。

「お前は俺のものだ、ティリア」

 そう言って彼女の肌着に手を掛け、力任せに引き裂いた瞬間、部屋の窓越しに雷鳴のような喊声が轟き、殷々と響き渡った。