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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 1

「分かるか」

 接収して間もない雷声宮の一室で、救国の功臣である殉国隊士たちは、春影帝セファド・グリイスの謁見を賜っていた。真新しい錦の帝袍(王族の礼服)を纏った精悍な皇帝は、陣頭に立って軍刀を振り翳し、兵士を鼓舞していた頃の埃っぽい軍服姿とは見違えるように神々しく、美しかった。

「畏れながら陛下。臣には理解出来ません」

 日頃は誰よりも冷静沈着なジェリハスが、珍しく腰を浮かせて強い口調で異議を唱えた。眉根を寄せて制止するラシルドの険しい面差しにも怯む様子を見せず、奔騰する激情を総身に滲ませて足早に進み出る。

「年少であるとは雖も、ガルノシュ・グリイスは雷声帝の跡取りに御座います。その命を長らえさせることは、敢えて亡国の禍根を遺すことに等しいのでは御座いませんか」

「陛下の御前だ。控えないか、ジェリハス」

 重ねて発せられた上官の叱声も、興奮した部下の耳には虚しく響くばかりであった。面を伏せてジェリハスの諫言に聞き入る他の隊士たちも、皇帝の奇怪な決断に疑念を禁じ得ずにいた。今は無力な少年に過ぎなくとも、長ずれば必ずや亡父の無念を晴らすべく、怨敵である春影帝の治世に血塗られた牙を剥くであろう。そのときになって、過去の温情を自ら悔やんでも手遅れである。

「皇は、もう終わりにしたいのだ」

 ジェリハスの非礼を咎めるでもなく、その苛烈な剣幕に動じるでもなく、皇帝は飽く迄も理性的な物腰を保ったまま、静謐な口調で答えた。

「斬月帝の故事を引くまでもない。人民を統べる王家の内紛が、如何に帝国の安寧を衰微させるか、お前たちも知らぬ訳ではなかろう」

 跪いて古びた絨毯の模様へ視線を落としていたカゲイロンは、反射的に面を上げ、皇帝の沈痛な相貌を改めて見凝めた。兄の暴虐を諫めて住み慣れた都を逐われて以来、その双肩に降り積もった艱難辛苦の重さは、深甚な憂愁と化して皇帝の瞳に澪の如く滲んでいる。暴虐を恣にした雷声帝アイルレイズと、その野蛮に叛旗を翻した春影帝セファド、彼ら二人の王族の間に巻き起こった深刻な対立が、緑邦帝国に未曽有の危殆と荒廃を齎したことは疑いようのない事実である。此れから緑邦帝国は、厖大な歳月を費やして復興の道程を一歩ずつ家畜のように歩んでいかねばならない。その責務と使命を、人一倍思慮深く情に篤い春影帝が、魂に施された刺青のように重苦しく捉えていることは明白だ。その胸底を想えば、此れ以上肉親同士で啀み合い、殺し合うことを望みたくない皇帝の方針に、臣下の分際で容喙を試みるのは残酷な振舞いであるように思われた。

「兄を殺したことに、後悔はない。だが、それを正義と断じて疑わずにいられるほど、皇は厚顔ではない」

「然し」

 猶も抗弁を企てようとするジェリハスの肩へ、ラシルドの逞しい指先が鞭のように食い入った。

「ジェリハス。陛下の御聖意に差出口を叩くのは止せ」

 唇を咬んで振り向いたジェリハスの双眸に、名状し難い感情の錯綜が満ちていることを、ラシルドは即座に悟った。セファド・グリイスの戴冠に至るまでの四年間、焦土と化した祖国の大地で、どれほど多くの死屍が積み上げられたか、謁見の場に居合わせた人々の中にそれを知らぬ者は皆無である。あれだけの悲惨な労苦を支払った以上は、僅かな綻びの虞も残らず摘み取っておきたい。敢えて逆臣の謗りを拒まず、果敢な諫言へ踏み切ったジェリハスの悲痛な真情を、ラシルドは無言で受け止めてやることしか出来なかった。

「分かってくれるか、ジェリハス」

 忠実な臣下の複雑な胸中を見透かしたように、皇帝の峻厳な双眸が柔らかく緩んだ。

「己の信じる正義の為に、皇は兄を弑した。ガルノシュの助命は兄への、せめてもの罪滅ぼしだ。親の罪を、子が背負う義務はない」

 

 深い藍色に染まり始めた夜明けの草原を、彼らは疾駆していた。蹴立てた土埃が薄闇に紛れて彼方へ流れ去り、吹き抜ける冷たい風と荒々しい馬の息遣いだけが鼓膜を領する。思い立ったら直ぐに行動したがる気短な性格のカゲイロンは、渋るヴァルクリフを強引に口説き落として、騎馬保安部の職員であるグイネルという若いドラン人の男を、ラルダドラドへの案内役として借り受けることに成功していた。ガルウジアの騒ぎが漸く落ち着いたので、不幸にも中断させられた仮眠の時間を取り戻そうと宿直室へ向かっていたグイネルは、俄かに呼び出された局長室の長椅子でヴァルクリフから事の顛末を聞かされ、すっかり気を滅入らせたものの、見るからに柄の悪い禿頭の男の熱弁を遮る手立てを持ち合わせていなかった。

「憐れな男だな。こんな悪党に見初められて、夜中だというのに水先案内人の役回りを引き受けさせられるんだから。同情に値するよ」

 浅黒い肌を土気色に染めたグイネルが、悴んだ指先で馬房の鍵を開けるのを眺めながら、エトルースは肩を竦めて苦笑した。

「せめて朝まで待てないものかね」

「事態は一刻を争う。お前だって分かってんだろうが」

「血気盛んなドレイナの族長たちも、今頃は大人しく寝床へ舞い戻っているだろうさ。興奮が醒めていないのはお前だけだ」

 エトルースの失笑を払い除けるように逞しい馬の背中へ跨り、尻へ鞭打って荒涼たるタイリン平原の暗い大地へ駆け出して以来、カゲイロンの脳裡には二十年前の記憶が次々と泡のように浮かんでは儚く潰えていった。グリイス暦六〇〇年八月二十日の正午、長きに亘り悪逆の覇王として帝国全土へ君臨した雷声帝アイルレイズの首級が、グリイス広場へ組み上げられた櫓の床に転がり落ち、運命の歯車が大きく回って新しい時代の扉を押し開いた頃の出来事の連なりが、不規則に甦って彼の意識を脅やかし続けていた。せめてもの罪滅ぼしを試みた春影帝セファドの誠実な衷情を怪しむ訳ではない。既に時の彼方へ過ぎ去ってしまった皇帝の決断を悔やむのは馬鹿げている。どうせ覆せないのなら、その遺志を受け継いで少しでも希望に満ちた未来を手繰り寄せるべく奮闘するしかないのだ。

 藍色に染まった東天の縁が暁の光にほんのりと白み始めるのを見据えたまま、カゲイロンは歯を食い縛って、胸底を蝕む絶望の触手を振り払うように一際強く馬の尻を鞭打った。

 

 雷声帝の時代に建設されたと思しき鋼鉄の白い防壁は、見捨てられた年月の長さを物語るように劣化が進み、すっかり赤錆びていた。正門を塞ぐ色褪せた巨大な板戸は、風雨の暴力に堪えかね、到る所が朽ちて破れかかっている。その隙間から垣間見える物見櫓に歩哨の姿はない。そもそも掖門の脇に置かれた警衛の詰所さえ、寒々しい沈黙に打ち拉がれているのだ。

「此れがラルダドラドか。噂以上だな」

 白く煙るような曙光に照らし出された集落の外観を見凝めて、エトルースが押し潰されたような声で低く呟いた。晴れやかな朝を迎えたというのに、動き出す人間の気配は微塵も感じられない。廃墟のように静まり返った村落の防壁に指先で触れて、カゲイロンは溜息を吐いた。

「この壁の向こうに、雷声帝の築いた闇が澱んでるって訳か」

 鳥の囀りも葉叢の擦れる音も息絶えたように聞こえてこない、平原の村。往古は豊かな水の恵みを齎したと伝わるラルドー湖も、近年は度重なる旱魃に僅かな牧草さえ忽ち枯れ果ててしまう惨状が続いているという。終戦以来、唯でさえ深刻な貧困と窮乏の深淵に追い詰められているラルダドラドの住人にとって、それは残忍な刑罰のように堪え難い悪夢であろう。

「何時もこんな感じなのか」

 局長から夜更けの道案内を命ぜられた哀れな警事官グイネルは、カゲイロンの言葉に重苦しく頭を振った。

「私が知る限りは、ずっとこんな有様だ。尤も、特別な用事でもなければ、態々ラルダドラドの近辺へ立ち寄ることはないが」

「無関心を決め込むのが、ドレイナの流儀なんだろう」

 釘を打つように刺し込まれたエトルースの厭味に、グイネルは憤慨した様子で振り返った。

「要らぬ揉め事を起こす必要はない。理由はそれだけだ。我々は長い間、互いに袂を分かってきた。総ては神聖なる馬闘式の裁決に従っているだけだ」

「だが、宥和という選択肢が有り得なかった訳じゃないだろう。過去の遺恨を水に流して、救いの手を差し伸べれば、ワーファドの亡霊も化けて出る必要はなかったんじゃないか」

「仮定の話は意味がない。この期に及んで、容易く和解が成立する筈もなかろう」

 毅然たる態度で冷ややかに言い放つ警事官の横顔を、カゲイロンは黙って見凝めた。飼い馴らした筈の手駒でさえ、ドレイナとラルダドラドの歴史的な和解という可能性を信じられずにいるのだから、ヴァルクリフの想い描く崇高な理想が拙劣な画餅に終わる公算は限りなく高いのだろう。況してや相次ぐ殺人事件の忌まわしい効果で、ドレイナの住人のラルダドラドに対する心証は、戦後最悪の水準と呼べるほどに手酷く損なわれてしまっている。今更、下手人の背後に潜む黒幕の素顔を暴き立てたところで、ドレイナの族長たちの憐憫を購うことは難しいかも知れない。

「まあ、とりあえずラルダドラドの『現実』って奴を確かめに行こうぜ。どんな悪人だって、それなりの道理は携えてるもんだろ」

「分かっている。だから、局長の方針に従っているのだ」

 憮然とした表情で答えるグイネルの尖り切った口調に、カゲイロンは片方の眉を釣り上げて降参してみせた。