サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 2

 掖門の鉄扉を押し開けると、腐った蝶番が軋んで金属の欠片が木炭の粉のように細かく散った。大柄なカゲイロンが先頭を切って上体を屈め、掖門を潜り抜けると、静まり返った集落の生温い空気が頬を湿らせるように覆い被さった。

「誰も歩いてねえな。影も形も見当たらねえ」

「我々の潜入が予期されていた可能性はないか?」

 エトルースが、殿を務めるグイネルを顧みて問い掛ける。険相の警事官は荒涼たる集落の光景に気圧されたように唇を固く引き結び、鋭利な眼光を素早く辺へ滑らせた。

「分からない。だが、大規模な襲撃ならば兎も角、たった三人の闖入者の為に村を空ける必要があるか?」

「物蔭に隠れて待ち伏せしている虞もあるだろう。連中は、次から次へとドレイナへ刺客を潜り込ませているんだ。間者の伝令が我々の動きを察知したのかも知れない」

「生憎、私には分からんよ。何度も仮眠を妨げられ、寝惚け眼を擦って宿舎を這い出て来ているんだ。そんなことまで抜かりなく確認する暇などなかった」

 グイネルの言い分は尤もであった。ラルダドラドの住人達を支配する黒幕が、帝都治安本部蒼衣隊のマドン帥刀官であることは、ガルウジアの自白によって既に確かめられているが、どれほどの規模の人員を抱え、どのような指揮系統を布いているのか、事実の細部に関する究明は未だ不充分な状況にある。最悪の事態を想定して不吉な懸念材料を計え上げておくのも大切な心構えだが、限られた情報を基に幾つもの憶測を林立させても報われる見込みは乏しい。とりあえず慎重を期して、集落の深奥へ一歩ずつ踏み込んでいくしかない。

 錆びついた防壁に囲われた村落の内部は、砂利を敷き詰めた大路によって南北に貫かれ、その両脇を縁取るように簡素な木造の民家が延々と連なっていた。大路の突き当たりには、鋼の柱で補強された石積みの平屋が聳え立ち、不吉な沈黙の深みに聖廟の如く沈み込んでいる。その傍らに屹立する望楼は、恐らく哨戒の為に築かれたのであろうが、正門の破れ目から密かに覗き込んだときと変わらず無人のままであった。集落全体が、何年も昔に住人から見限られ、追憶の彼方へ置き去られたかのように、その機能を停止してしまっている。

「遠からず廃村になるって噂は嘘っぱちだったな。とっくの昔に廃村になっちまってるみてえだ」

「だが、誰も暮らしていないということはないだろう。あのガルウジアという男は間違いなく、ラルダドラドから来た刺客だった」

 馬闘式に敗北を喫して流氓の運命を余儀無くされたワーファドの一族が、ラルダドラドの暗闇に身を潜めて夥しい呪詛と怨嗟を煮詰め続けていることは、ガルウジアの証言を信じる限り間違いのない事実である。家郷を逐われ、行き場を失った彼らが、雷声帝の支援で築かれたラルダドラドの集落を、その設備が如何に古びていようとも全面的に見捨てるとは考え難い。ガルノシュが二十年の雌伏を通じて培った強大な権勢を梃子に、使い捨ての駒に過ぎない彼らの為に新たな塒を用意するとも思えない。余りにも深刻な生活の窮乏に堪えかねて、多くの離脱者が発生しているのであろうか。ガルウジアのような若者ならば、直接に関わり合いのない昔日の因縁に縛られたまま、この見捨てられた村落へ固執せずとも、自らの生きる途を外界へ求めて旅立つことは充分に可能である筈だ。

「夜逃げしちまった連中も少なくねえのか」

 カゲイロンの問い掛けに、グイネルは苦り切った表情で躊躇いがちに答えた。

「詳しいことは知らないが、そういう輩がいても不思議ではない。だが、我々ドラン人は昔から有形無形の差別と迫害に苦しめられてきた。父祖伝来の首の刺青も、余所者にとっては目障りな習慣として蔑まれることが多い。異郷の街へ逃げ込んだとしても、人並みの暮らしを得ることは難しいと考えるべきだろう。だからこそ、我々はドレイナの街に集住せざるを得ないのだ。我々の祖国は緑邦帝国ではなく、飽く迄もタイリン平原の広大な草地なのだから」

「成程ね。囲い込むには格好の相手という訳か。否が応でも、追い詰められた連中には、縋るべき命綱を選り好みする余裕はねえからな」

 そこまで計算し尽くした上でラルダドラドを標的に据えたのだとしたら、随分と悪逆な計略である。帝都治安本部の背後に控えるガルノシュ・グリイスは、暴君の遺児として厳しい賤視に晒され続けて来た二十年の間に、人心の暗部に対する理解を極限まで研ぎ澄ませたに違いない。

「気鬱な潜入になりそうだが、往くか」

 沈痛な面持で切り出したエトルースの言葉に、カゲイロンは眉を顰めて頷いた。

「今更、真実から眼を背けたって始まらねえからな」

 

 手始めに一行が眼を着けた粗末な民家は、茅葺きの屋根に幾つも穴が開き、軒先に吊るされた農具も悉く黒々と錆びついていた。寒暖の差が劇しく、夏場は頻繁な旱魃に荒らされ、冬場は分厚い霜に覆われてしまうラルドー地方では、農耕に基づく定住への希望は実に容易く踏み躙られてしまうのだ。東のエレドール沙漠から風に乗って運ばれる夥しい砂塵も、湖畔の僅かな牧草地にとっては深刻な災害であった。

 伏兵を懸念して慎重に歩み寄り、汚れた明り取りの窓へ首を伸ばして覗き込むが、室内の様子は闇に閉ざされて確かめようがない。黒ずんだ板戸を叩いて応えを乞うてみても、雨樋を駆け抜ける鼠ほどの物音すら聞こえない。痺れを切らしたカゲイロンの独断に基づいて、稲妻のような亀裂の走る板戸を押し開けると、途端に不快な臭気が鼻腔の奥へ毒針を突き込んだ。

「口を塞げ。呪草の臭いだ。吸い込むと気が狂うぞ」

 咄嗟に上衣の袖で口許を覆いながら、カゲイロンは混濁した乏しい光の射し込む室内へ眼を凝らした。薄暗い床へ延べた敷物に、痩せた人影が物も言わずに横たわっている。不意に現れた見知らぬ闖入者の気配にも身動ぎすら示さずに、屍のような沈黙を守り抜くその人影へ慎重に歩み寄ると、カゲイロンは無言で枕許へ屈み込んで、顔を覗き込んだ。

「生きてるな。だが、様子がまともじゃねえ」

 瞼を閉ざして微かな寝息を立てる年嵩の男の首筋には、皺の寄った紅い馬の刺青が彫り込まれていた。だらりと伸び切った手足は刃物で削がれたように肉が薄く、弛んだ頬は酷く血色が悪い。枕許には石を刳り貫いた無骨な灰皿と古びた煙管が置かれ、豚のように膨れた生成色の麻袋が無造作に積み上げられていた。

「呪草か。凄まじい量だな」

 麻袋の口を手荒く緩めると、乾燥した呪草の束が艶やかな躑躅色の茎を突き出した。その悪趣味な紅は紛れもなく、ラルドー湖畔に自生する炎質呪草ハジフェデの特徴である。枕許の煙管に詰め込まれた粗い粉末に鼻先を近付けて嗅いでみると、暴徒制圧局時代に密売人の集団から押収した呪草の記憶が鮮烈に脳裡へ呼び覚まされた。

「最悪だな。単なる民家にまで、此れほどの量の呪草が行き渡っているとは」

 眉間に深い皺を刻んで、グイネルが麻袋から零れ落ちた呪草の束を硬い靴底の踵で踏み潰した。

「帝都治安本部蒼衣隊は、呪草の濫用を抑止することが使命である筈だ。禁制の呪草を民家へ運び込むなど、万死に値する大罪だぞ」

「それだけ腐敗が進んでいるということさ。雷声帝の時代に逆戻りしているんだろう」

 概ね予測されていた事態であるとはいえ、実際に呪草の現物を目の当たりにしてみると流石に動揺を禁じ得ず、エトルースは平静を装う為に諦観に満ちた言葉を吐き出した。雷声帝アイルレイズの手足として虐政の亢進を助けた帝都治安本部は戦後、春影帝の号令で大鉈を揮われ、陣容の徹底的な刷新が図られた筈であったが、メレスヴェルの病死以来、その趨勢は急激な逆行を遂げつつある。何もかも、あの忌まわしい時代へ再び、汚水の如く引き摺り込まれようとしているのだ。正しくカゲイロンの言った通りだ。此れが余計な回り道だとしたら、帝政監査委員会の使命とは一体何だろう。

「おい、起きろ」

 カゲイロンが一向に目覚める素振りも見せない男の肩を掴んで揺さ振り、その耳許へ険しい声で呼び掛けても、単調な寝息が途切れるだけで、弛んだ瞼が開かれることはなかった。血色の悪い顔には青痣を思わせる斑点が染料を撒いたかの如く散らばり、時折、瞼が蛙の脚のように痙攣を示す。恐らく、末期の呪草中毒患者によく見られる嗜眠症の徴候であろう。呪草の常用で蝕まれた脳髄が、昏睡の発作を惹起するのである。此処まで副作用が重篤化すると、専門の医者へ掛かっても病状が改善する見込みは極めて乏しい。

「ガルウジアの御仲間という訳だ」

「畜生め。鋸鎌の連中は、ドラン人の内紛を煽る為なら手段を選ばねえ積りかよ」

「そういう奴らだ。分かってるだろう。失望するだけ時間の無駄だ」

 寂れた目抜き通りに沿って建ち並ぶ民家は、何処も似たり寄ったりの状態であった。先刻の住人のように余喘を保っているのは寧ろ幸運な事例で、悪化した脳炎の為に血の混じった吐瀉物を胸許へ撒き散らした醜悪な遺骸に遭遇することも一再ではなかった。

「呪草を浴びるように吸わせて、刺客に仕立て上げる。躰が動かなくなったら、そのまま放置して埋葬すらしない。此れがラルダドラドの『現実』か」

「余りに、惨いな」

 仕事柄、血腥い出来事には慣れ親しんでいる筈のグイネルでさえ、湖畔の曠野に投げ捨てられた孤独な集落の惨状には、眉を顰めずにいられない様子であった。無理もない。ドレイナとラルダドラドの二十年越しの対立は未だ解消されていないが、元々はドール・パル・ハーシェンの旗標を推戴する草原の民として、共に暮らしてきた同胞の間柄なのである。両者の訣別は、ドラン人の長い歴史においては寧ろ例外的な部類に属する。ラルダドラドの民が閉じ込められている苛酷な窮境を目の当たりにしても猶、煮詰められた憎悪を火酒の如く嚥下し続けるのは、彼にとっても恥ずべき振舞いであるに違いない。

「この惨劇が前菜じゃねえことを、精々祈るとしようぜ」

 カゲイロンの不吉な言葉に、グイネルは頬を引き攣らせて無言で頷いた。