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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 3

 八軒目の民家で漸く、一行は嗜眠症の禍いを免かれて覚醒を保っている人間と邂逅することが出来た。余りに長い歳月を堪え抜いてきた為に損傷の著しい木製の引き戸を開け放つと、不意の物音に弾かれたように顔を上げて、老齢の痩せ衰えた男が、使い古された鏃のような眼差しを此方へ向けてきた。

「何者だ」

 まるで何年も他人と言葉を交わしたことがないかのように、老人の声は濁って耳障りな響きを立てた。首筋に彫り込まれた黄銅色の馬の刺青は、窶れて皺の寄った皮膚に締め付けられて、その輪郭を無惨に歪めている。

「やっと話の通じそうな相手に巡り逢えたぜ、爺さん」

「お前たちは、一体」

 それ以上の問い掛けが思い浮かばないのか、途中で言葉に詰まり、萎れた唇を濡鼠の如く顫わせながら、老爺は垂れ下がった瞼に半ば埋もれた双眸を懸命に見開いた。寒々しい板壁に背中を預けて座り込んだ老爺の向かいに薄汚い茣蓙を見つけ、カゲイロンは遠慮も会釈も省いて傲然と腰を落ち着けた。

「安心しろ、あんたに危害を加える積りはねえ。少し話が聞きてえだけだ」

「ドレイナから来たのか」

 戸口の傍に佇立して峻厳な表情を崩さないグイネルの制服を一瞥すると、老爺は直ぐに上擦りそうになる声音を必死に整えて、咳き込むように問いを発した。

「そうだ。ラルダドラドの内情を探りに来たという訳さ」

「探って何になる。こんな、見捨てられた村の惨めな有様など、物笑いの種にしかならんだろう」

 長きに亘り虐げられ、蔑まれ続けてきた人間に固有の卑屈さを存分に発揮して、老爺は精一杯の冷笑を頬に滲ませた。だが引き攣った唇の形には、彼の魂が味わいつつある深甚な恐懼の陰翳が明瞭に波及している。グイネルが着込んでいる警事官の制服への尋常ならざる警戒の色も、彼の自虐的な言種が単なる虚飾に過ぎないことを暗黙裡に示していた。

「その見捨てられた辺鄙な集落に、刺客の巣穴があると聞いた。だから我々は、此処まで足を運んできたのだ。協力を惜しむなよ」

 老爺の総身から滲み出る不安げな緊張に誘われたように、グイネルが居丈高な口調で警告を発した。その横柄な口吻に拉がれたように顔を背けて視線を膝頭へ落とした老爺は、掠れた声で陰気に呟いてみせた。

「だとしたら、たった三人で乗り込んだのは、無謀と言うべきだろうな」

「脅かす積りかい、爺さん」

「脅かして何になる。事実を述べておるだけだ」

 幾重にも横皺の走った額へ顫える指先を宛がいながら、老爺は弱々しい笑みを零した。

「警務官が出張ってくるということは、概ね調べはついておるのだろう?」

「簡単な略図みたいなもんだ。詳しいことは分からねえ」

「ガルウジアが捕まったと、早馬が報せを持って来たばかりだ」

 疑い深い光を湛えて、試すような口振りで老爺は言った。

「腕尽くで吐かせたのだろう。彼奴は血気盛んな小僧だ。何れ仕損じるだろうとは思っておった」

「随分と余所者に協力的じゃねえか。口が軽いと、マドンに呼ばれて折檻されるぜ」

「今更こんな死に損ないに、隊長殿が鞭打ちを試みる訳があるまい」

 当初の恐懼が徐々に和らいできたのか、老爺の唇の顫えは知らぬ間に収まっていた。相手の反応を探る為に敢えて冷酷な蒼衣隊長の名前を口に出しても、特に怯えたり慌てふためいたりする様子もない。或いは、既に老爺の心境は達観と絶望の極致へ辿り着いて久しいのかも知れなかった。薄暗く薬品の臭気に満ちたラルダドラドの家並は、悉く嗜眠症の患者とその成れの果てによって占められているのに、この年老いて脂の抜け落ちた男だけが正気を保っているのは、彼が横柄な軍人への無用の抵抗を早々に断念しながら、一方ではドレイナへの怨念を爆発させることにも興味を示さず、人畜無害の朴念仁を決め込んだことの成果なのかも知れない。

「爺さん、あんた何者だ」

 素性を確かめるべく口調を改めたカゲイロンの鋭利な双眸を、老爺は白昼の日輪でも眺めるように眩しげに眼を細めて見凝め返した。

「儂はジャルサ氏族の族長ナイラーミーと申す。尤も、今では帝都治安本部の手先に厄介払いを喰わされて、単なる穀潰しの老い耄れに堕落しておるがな」

 薄い頬を歪めて微笑む老爺の表情は、明らかに陰鬱な自嘲の色彩に縁取られていた。ドレイナの族長たちが今も部族社会の遺制に守られて、固陋な偏見に支えられた絶大な権勢を保っていることを鑑みれば、ナイラーミーの見窄らしい落魄振りは余りに無惨な姿であると評せざるを得ない。節榑立った指は血を抜かれたような灰色に染まり、総身を覆う上品な藍色の単袍も随所に綻びを抱えている。ずっと洗っていないのか、奔馬を描いた錦糸の刺繍にも、黒い汚点が虫の足跡のように散らばっているのが見えた。

「色々と訳知りの様子だな」

 此れまで辿ってきた民家とは異なり、室内に一把の呪草も見当たらないことを確かめながら、グイネルが迂遠な口調で老爺に問い掛けた。

「我々はドレイナから、ラルダドラドの内情を偵察する為に来た。だが、勘違いしないでもらいたい。目的は飽く迄も帝都治安本部の犯罪を鎮圧することであって、ラルダドラドの住人による災禍を排撃することではない」

「随分と堅苦しい警事官だ。どちらでも今更、構わんよ。儂の与り知らないことだ」

 老爺の虚無的な返答に冷水を浴びせられたような気がしたのか、グイネルの眦を憤怒の欠片が俄かに侵した。

「無関心を装っても無益なことだ。いいか、知っていることは残らず白状しろ」

「見知らぬ若造に指図される筋合いはないぞ。たとえ病み衰えようと零落しようと、ジャルサの一族を束ねる棟梁であることに変わりはない。礼節を弁えるがいい」

「この期に及んで、昔日の栄光に縋るなど、馬鹿げているでは」

「止めろ、グイネル。年長者を見縊るのは不埒な習慣だぜ」

 棍棒を思わせる立派な腕を伸ばしてグイネルの暴走を阻んだカゲイロンの殊勝な言種に、壁へ凭れて成り行きを見守っていたエトルースが冷笑を押し殺して言った。

「お前が長幼の序に就いて警事官を諭すとは、時代も変われば変わるものだな、カゲイロン」

「うるせえな。俺は昔から目上に対する礼儀には厳しいんだ」

「目下に対する独裁にも、一家言あるんだろう」

「引っ込んでろ」

 威嚇の為に投げ付けられた年代物の煙管を払い除けて、エトルースは鼻を鳴らした。腕利きの暴徒制圧局長であったカゲイロンは、組織の決定にも直ぐに反駁と抵抗を試みる荷厄介な硬骨漢として、上役から煙たがられていたと聞く。帝国義勇軍へ馳せ参じた後も、上官であろうと同輩であろうと構わず口論を仕掛けて私闘へ通じる階段を極めて安易に駆け上がるので、綱紀粛正を重んじる高官の中には、彼を蛇蝎の如く忌み嫌い悪罵する者も少なくなかった。その荒々しい気質が雷声帝の虐政に対する激越な憤怒へ発展し、彼に殉国隊の軍長としての名声と栄誉を齎したことは事実だが、美質は常に欠点と裏腹であるのが世間の習いである。ラルダドラドの窮状を見兼ねて過大な義憤に衝き動かされ、帝都治安本部を相手に血煙の濛々と舞い立つ斬り合いを演じ始めないか、エトルースは密かに気懸りを募らせていた。

「この村には、爺さんの他に動ける人間はいねえのか。表は静まり返って野良猫一匹歩いちゃいねえし、空き家も少なくねえ。まるで廃墟だ」

「雷声帝が崩御して以来、この村の景気は二十年に亘って右肩下がりだ。マドンが来てから、若い連中はドレイナへの報復に血道を上げておるが、儂のような老体には最早、それさえ虚しい話だ」

「その若い連中の姿を一度も見掛けねえのは、一体どういう訳なんだ」

「収穫だろう。ラルドー湖の傍には、呪草の自生地が広がっておる。そこで野良仕事の為に使役されておるのさ」

 ラルドー湖畔の呪草地は長年、政府から見捨てられた無法の領域として、暴利に群がるヴィオルたちの縄張りへと堕落していた。亡国法廷を開いて陛派の重要な戦犯を次々に断罪した春影帝政権は、臣民の政治的な分断を避ける為に戦犯縁者赦免令を布告し、戦犯とその遺族に対する差別を禁じて、和解の推進に苦慮してきたが、険しい復興の行程に漕ぎ出したばかりの貧しい国家が、帝土の隅々にまでその恩恵を及ぼすことは不可能であった。

 陛派に与した愚かなドラン人の窮迫に、財政においても人員においても行き詰まっていた若々しい萌芽のような春影帝政権が、積極的な関心を示し、熱心な援助に踏み切ることはなかった。彼らは他にも多くの政治的使命と社会的課題を重荷の如く背負い込んでいたし、貧困のどん底で喘ぐラルダドラドの住民を見放しても特段の損失を蒙る虞は少ない。限られた資源を遣り繰りして荒廃した国土の再建を一刻も早く軌道に載せなければならなかった春影帝の苦衷を思えば、ドレイナにおける陛派の領袖となる道を選んだワーファドの悲劇に行き届いた憐憫と救済を寄せなかったからと言って、偉大な皇帝の施政を難じるのは御門違いというものだろう。

「戦争が終わって、首長のワーファドが刑死してから、この村はずっと極貧の生活に喘ぎ続けて来た。政府からの援助は悉く打ち切られ、若い連中に軍事教練を指導しておった連中も、残らず戦犯として引っ立てられて、姿を消した。代わりに現れたのが、凶悪なヴィオルどもだった。ラルドー湖の呪草地が甘い汁を滴らせておるのを、奴らはずっと指を銜えて眺めるだけの状態に留め置かれておったからな」

 アラルファン、ヴェロヌス、ファボス、ユリール、カリスタ、キグナシア、帝都アルヴァ・グリイス。一定の規模を有する都市ならば必ず、その暗がりに狡猾な悪漢どもの巣穴を養っているのが帝国の通弊である。交互に襲い掛かる旱魃と冷害に虐げられ、東のエレドール沙漠から吹き寄せる夥しい砂塵に苦しめられてきたラルダドラドの住人たちにとって、湖畔に自生する広大な呪草地は、莫大な額の金銭へと姿を変える貴重な作物であった。収穫した呪草を横暴なヴィオルの仲買人に納めて、割に合わない安価な報酬を受け取るだけでも、国家の支援から切り捨てられたドラン人たちの生活は幾らか安定した。尤も、そうやって手に入れた報酬も結局は、別のヴィオルの仲買人から食糧や衣服や薬などを高値で購う為に瞬く間に費消され、手許には一銭も残らないのが普通であった。

「儂らはずっと、ヴィオルの奴隷として暮らしてきた。半年前にマドンが来て、新たに主人の椅子へと這い上がったが、現実は何も変わりはせん。皆、湖畔の呪草に欲情しておるだけで、儂らの窮状に関心を寄せることなど、一度もないのだ。敗兵の末裔には、相応しい人生だろうな」

 乾き切って索漠とした笑いが、老爺の無表情な口許へのっぺりと貼り付いた。