サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 4

 枯れ枝のような痩躯を引き摺って運びながら、ナイラーミーは静まり返った無人の大路を先に立って歩いた。その緩慢な歩行に付き随いつつ、カゲイロンは行く手に聳え立つ石積みの建物へ視線を投じた。

「大昔、あの場所には、湖畔の民の神殿が置かれておった」

 頼りない足取りに荒く乱れがちな呼吸を重ね合わせて、老爺は静かな口調で告げた。

「ラルドー湖が未だ豊かな水甕として、エレドールの大地を潤しておった時代の話だ。土着のランデール人たちが、湖底に住まう水神ラーヘンの恵みに感謝を捧げ、且つその怒りを鎮める為に神殿を築いた。ラーヘン神殿は長い間、ランデールの民にとっては魂の拠り所であった。無論そこには、アルヴァ・グリイスの創建した狂暴な帝国の軍勢に踏み荒らされるまでは、という但し書きがつくが」

 苦々しげに歪められたナイラーミーの乾いた唇を、カゲイロンは黙って一瞥した。ランデール人は、嘗てラルドー湖を中心とした一帯に居住していた先住民で、太祖緑邦帝アルヴァの毒牙に斃れるまでは、湖畔に築いた都市ナダードを王城に推戴して繁栄を謳歌していた。苛烈な抵抗を試みた為に、草の根一本すら見逃さぬ徹底的な劫掠に晒されたランデール人の王都は、文字通り灰燼に帰して今では跡形もなく、ラーヘン神殿も横暴な略奪と冒涜の贄と成り果てた。

「廃墟と化した王都は見捨てられ、年々勢いを増しつつある沙漠の熱風に焼かれて、無人の曠野へ復してしまった。その非業の大地に、故郷を逐われた儂らが逃げ込んで、巣穴を拵えた訳だ。何れにせよ、輝かしい土地でないことは間違いがない」

「そして再び、廃墟に戻りつつある」

「そういうことだ。呪われた土地ということかも知れん。踏み躙られ、凌辱され、虐殺されたランデールの民の怨霊が、そして何より破壊された神殿の主が、この土地を訪れる者に畏怖すべき禍事を齎しておるのだろう」

 そういう迷信紛いの認識に積極的な賛意を示す気分にはなれなかったが、だからと言ってラルドー湖の周辺に刻まれた醜怪な歴史の痕跡を嘲笑う訳にもいかなかった。湖を取り巻く厖大な呪草地の奥底にも、惨殺されたナダードの兵士たちの血潮は深く染み込んでいるに違いないのだ。彼らの怨霊が、腕尽くで奪われた土地へ勝手に移り住んで来る人々への敵意を、或る抽象的な方法で表現していると信じ込むのは、それほど的外れな見解ではないように、カゲイロンには思われた。

「そして今、この集落はマドンによる支配、という禍事に苦しめられ、苛まれておる」

 不快な悪夢から目醒められぬまま、眩暈に堪えるように老人は一語一語を咬み締めて発した。

「雷声帝が斃れた後、この村はあらゆる支援から切り捨てられ、庇護者を失った。代わりに現れたのは、呪草の齎す暴利に欲情したヴィオルどもだった。儂らは朝から晩まで呪草の収穫や堆肥作りに明け暮れ、小作人として躰を壊すまで使役された。そんな日々が俄かに、蒼衣隊の手で革められた。無論、儂らの窮状は何一つ変わらんがね。寧ろ、事態は一層、捻じ曲がった方向へ傾きつつある」

「蒼衣隊の狙いは、呪草か?」

「他に考えられるかね。見捨てられた貧民から、呪草の他に何を奪える?」

 何故、今になって蒼衣隊がラルダドラドの豊饒な呪草地に着目したのか、その真意に就いては慎重に考究を重ねる必要があると、カゲイロンは考えた。謀反を企てるガルノシュ・グリイスと陛派の面々が軍備の調達や政治的な工作、例えば贈賄の資金を確保する為に、呪草の密売に関心を示したと仮説を立てることも不可能ではない。唯でさえヴィオルの跋扈する無法地帯と化していたラルドー湖ならば、非合法の悪行に手を出しても咎められ難いと判断したのだろうか? 蒼衣隊を駆使すれば、実情は呪草の密売に付随する穢れた巨利が目当てであったとしても、表向きはヴィオルの駆逐という名目を押し通して司直の眼を欺くことが出来るだろう。政務庁掌補の地位に就いているガルノシュの権勢を鑑みれば、事態の真相に犀利な省察を加えようと試みる法務庁の検事局員たちを黙らせることも、然して難事ではない筈だ。

「呪草だけが目当てなら、何故ドレイナに刺客を放つ必要がある?」

 ナイラーミーの陰気な述懐に耳を傾けていたグイネルが、抑え難い憤懣に衝き動かされるように声を荒らげて問い質した。

「ラルドー湖の広大な呪草地に、我々ドレイナの民は何の利権も保持していない。呪草を独占して甘い汁を啜ることだけが目的ならば、今ではラルダドラドと何の関わりもないドレイナの住人を手に掛ける理由が何処にあるのだ?」

 厳しい口調で糾弾するグイネルの高圧的な剣幕に気圧されて、窮迫した老爺は族長の貫禄を微塵も示せぬままに黙り込み、立ち竦んだ。二人の間に割って入り、不毛な口論が巻き起こるのを腕尽くで阻む構えを見せながら、カゲイロンはグイネルの疑問に内心で同意した。呪草地の支配権を悪逆な無頼漢の手から奪い取りたいということだけが蒼衣隊の暗躍の背景ならば、ドレイナの相次ぐ惨劇はどのような理由に基づいて惹起されているのか。それが事態の真相を解明する上で重要な鍵となることは確実であった。

「ガルウジアは、ドレイナの人間を殺す度に一万エナクの褒賞金が貰えると言っていた。蒼衣隊が差配しているんだろう? その目的は一体何だ」

「鋸鎌の頭目が何を考えておるのか、それは儂の与り知らぬ問題だ」

「他人事だと言い張る積りか」

 堪えかねて老爺の胸倉を掴んだグイネルの逞しい腕を、カゲイロンは静かに押し留めた。

「止せ。この爺さんを虐げても何の解決にもならねえ。分かってんだろう」

「同胞を殺され、無力な警事官は町から消え去れと罵られる我々の立場はどうなる」

「真実を解き明かす以外に方法はねえだろ。元凶はマドンだ。正しい病巣に眼を向けろ」

 グイネルの心情を理解し、共感するのは難しいことではないが、この哀れな老人に総ての矛盾の責任を取らせるのは筋違いだ。そもそも、この荒れ果てた乾土の集落に住まう人々は皆、二十年来の宿縁に呪縛されて自力では身動きすら取れない窮状へ追い込まれている。民族的には同胞に違いないドレイナの無辜の住人を刺殺してでも、目先の報酬を切実に望んでしまう良心の麻痺は、彼ら自身が積極的に希求した現実ではないのだ。無力であることを罪悪として裁くのは酷薄に過ぎる。それがカゲイロンの導き出した慎重な結論であった。

「人殺しに褒賞を配るのは、蒼衣隊長マドンの指示なんだな?」

 不服な表情を押し隠そうともしないグイネルの暴発を警戒しながら、エトルースが沈着な口調でナイラーミーに訊ねた。項垂れた老人は憤るグイネルの険相に怯えつつも、乾き切って罅割れた血色の悪い唇を蛞蝓のようにゆっくりと動かして答えた。

「マドンは、若い者たちにドレイナへの襲撃を命じた。呪草を配り、嗜眠症の危険は伏せたまま、ドレイナの住人を一人殺す度に一万エナクの褒賞を支払うと煽り立てた。それが罪深いことだと、知らぬ訳ではないさ。だが、儂らは余りに長い間、惨めな飢渇に苛まれてきた。特に若い連中は、堪え忍ぶ力が弱い。誘惑にも、容易く膝を屈してしまう。それに彼らはドレイナへの呪詛と怨嗟を、二つの耳の孔に注ぎ込まれて育ってきたのだ。良心を絞め殺すほどの根深い悪意を、養っておるのだ」

「刺青を狙うのも、憎しみの表れということか」

「発案したのはマドンだ。無論、我々も反対はしなかった。その屈辱的な意味合いは充分に理解した上で、同意したのだ」

 息苦しい沈黙が、乾いた風の吹き抜ける索漠たる大路に澱みながら漂った。貧民を金銭で誑かし、同胞の殺害という悍ましい罪悪へ駆り立てる。それが呪草地の権益とは全く異質な問題であることは明白だ。邪悪な煽動の思惑は恐らく、ドレイナとラルダドラドとの間に深刻な内紛を喚起することに照準を合わせている。

「何故、マドンがお前たちを煽って、ドレイナの住人を殺せと唆すのか、その意図は理解しているのか?」

 飽く迄も抑制された穏やかな口調で、エトルースが問いを発した。老爺は眼を伏せたまま、静かに首肯した。

「若い連中は金に眼が眩んでおるだけだ。その裏側に、どんな魔物が隠れているかなど、考えもせんだろう」

「族長として、訓育する積りはないのか」

「老い耄れの戯言だと一蹴されるだろうさ。この村では、年長者への敬意など遥か昔に途絶えた伝統だ。この村の窮状を生み出したのは、儂のような愚かな老い耄れどもなのだからな」

 重苦しい徒労の感覚が、荒廃した集落の敷地に立ち尽くす彼らの総身に覆い被さり、鼓動を圧した。ドレイナの族長たちは、ラルダドラドの若者たちの凶行に憤激している。官憲と司直による合法的な裁きが下されないのであれば、古来の仕来りに則って私闘の禁を犯すことさえ辞さない覚悟であろう。このまま襲撃が止まなければ、大規模な武力衝突に発展しかねない状況なのだ。一旦そうなれば、官軍による強硬な鎮圧の手はラルダドラドのみならず、ドレイナをも呑み尽くすに決まっている。一刻も早く蒼衣隊の支配を覆し、凶悪な奴隷として作り変えられたラルダドラドの人々を貪婪な狂奔から解放せねばならない。

「俺たちは、蒼衣隊の連中を叩き潰す為に此処へ来た」

 ナイラーミーの双眸を見据えて、カゲイロンは力強い口調で言い切った。無力な老人の、魂を抜かれたような顔。富も矜持も、何もかも失い、崩落しかかった廃墟のような、その精神。こんな風に人間を奴隷に作り変えるのが、嘗て帝国に君臨した暴君アイルレイズの手口であった。その遺風が今も沙漠の外れの貧しい集落に息衝いていることさえ知らずに、帝監委の看板を掲げていた己が、忌まわしく恨めしい。傍らでエトルースが大袈裟な溜息を吐くのが聞こえた。本来の職務を擲って横道へ逸れ続ける相棒の無軌道な情熱に、すっかり絶望させられているのであろう。だが、この期に及んで耳を塞ぎ、瞼を閉ざす訳にはいかない。

「呪草地はどっちだ。教えてくれねえか」

「たった三人で、鋸鎌どもを始末出来るとでも言うのか」

「遣れるさ。俺の力を見損なうのは止せよ」

 弛んだ首筋に刻まれた老爺の刺青は、擦り切れた草原の民としての矜持を表すかのように歪んで見えた。臆病な態度で案内を渋り続けるナイラーミーの肩に逞しい掌を載せて、カゲイロンは沈黙を守り続ける蒼穹に鋭利な眼差しを振り上げた。