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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 5

 タイリン平原の南東に位置し、エレドール沙漠の西端に接するラルドー湖は、国内屈指の面積と水量を誇る湖沼である。北東のカネシア山系に発するコルミダ河と、グリシオヌス連峰に発するバルクール河の夥しい支流によって形成され、沙漠化の亢進が著しいエレドール地方において、稀少な水源地として重用されている。建国戦争以前、もっと水量が豊かであった時代には、周辺の沃土に切り拓かれたランデール人やエイデン人の王国が繁栄を極めた。

 エレドール沙漠の面積が拡大の一途を辿り、コルミダ河の水量が衰えるに連れて、湖水は痩せ細り、周辺の集落は次々と息絶えていった。雷声帝の肝煎りでラルダドラドが建設された背景には、この見捨てられた地域であるラルドー地方を開墾し、国富を増進しようという政治的意図が働いていたとも言われる。

「ところが計画は頓挫し、ラルドー地方は欺かれた哀れなドラン人諸共、見捨てられ、今では自生する呪草を巡って、ヴィオルと軍務庁が啀み合っているって訳か。何とも惨憺たる有様だな」

 ラルドー湖の西方、丘陵地の麓で馬を降りたカゲイロンは、白っぽく乾き、無数の罅割れを走らせた大地から、膝の高さまで伸びる暗緑色の植物を見咎め、その草葉を千切って匂いを嗅いだ。反射的に、顔の筋肉が苦々しく歪む。

「上等のハジフェデだ。成程、悪党どもが群がるのも無理はねえ。売り捌けば、一夜にして億万長者だ」

 炎質の呪草は概ね乾燥に強く、酷烈な陽射しの降り注ぐ夏場に生育の頂点を迎える。この気候ならば丁度収穫の書き入れ時であろう。ヴィオルを追い払って、呪草地の主人となった軍務庁帝都治安本部蒼衣隊の面々が、ハジフェデの密売を通じて貪った暴利を如何なる悪事に注ぎ込んでいるのか、その実態を突き止めることが出来れば、鋸鎌の背後に蜷局を巻いている悪辣な黒幕の顔へ冷水を浴びせ掛けることも出来る筈だ。

 手綱を曳き、緩やかな斜面を登って湖畔へ近付く。水辺に迫るほどに、足許に生い茂る呪草の密度が増し、特有の苦い臭気が鼻腔の奥を刺した。

「見えるか、エトルース」

 斜面の頂に身を屈めて、湖岸を見据えながら、カゲイロンは言った。

「二十人ぐらいか」

 広大な湖水の対岸に、小さな人影が幾つかの塊に分かれて動いている。その背後には、石組みと思しき灰色の平屋が連なり、上衣の袖を捲り上げた男たちが荷物を担いで盛んに出入りしている。三人の立つ高台から湖岸へ続く斜面にも暗緑色の呪草が夥しく群生し、生温い風に葉叢を靡かせていた。

「全部刈り取れば、公族ぐらいの財産は築けるだろうな」

「軍人が呪草の密売なんざ、本末転倒だ。さっさと片付けるか」

「そうだな。余り、時間がない」

 悟られぬように丘陵の外郭へ引き返し、湖水の円周に沿って息を潜めて馬を駆る。東の砂漠から吹き寄せる砂混じりの熱風に、上着の裾や袖口が帆布の如く波打つ。青々とした呪草の葉叢を馬蹄で乱暴に蹴散らしながら、カゲイロンは旧友の顔を思い浮かべた。民族の分断を憂え、讐忿を断ち切ろうとする廉潔な情熱が対峙するものの大きさに、眼が眩みそうになる。呪草の密売という禁じられた生業の為に使役される同胞の惨めな姿を、ヴァルクリフはどう思うだろうか。現実を変革することの困難に、息を詰まらせるのではないだろうか。

 軈て行く手に、貨物用の獣車が数台停まっているのが見えた。荷台に堆く積み上げられた呪草の束に覆いを掛けようとしていた男たちが、地を揺るがす荒々しい馬蹄の響きに振り返る。不意の敵襲を悟り、血相を変えて喚き立てるその手に族長の家で見掛けた嵐棍の柄を握り締め、獣車を庇うように立ち開かる彼らを、カゲイロンは昏い瞳で堂々と睨み据えた。

「エトルース! 遠慮は要らねえ。親玉が登場する前に、さっさと雑魚は蹴散らすぞ!」

「言われなくても、そうする積りだ」

 鞭を撓らせ、馬を駆り立てる。風鳴りが強まり、鼓膜を圧する。馬の背に上体を伏せ、獣臭い鬣に鼻先を埋めながら、腰の呪刀を抜き放つ。掲げた嵐棍を振り翳して威嚇する男たちの、日灼けした顔が目前に迫る。構わず臆さず、そのまま突っ込んで擦れ違いざまに振り抜いた刃が、嵐棍を握り締めた腕を肘の辺りで断ち切った。鮮血が深紅の弧を描き、凄まじい絶叫が鼓膜を劈く。

 幾度も円を描くように走り回り、忠実に貨車を守ろうとする男たちを屠り終えると、そのまま手近な斜面を駆け上がり、湖水を目指す。頂を踏み越えると一挙に視界が開け、対岸から眺めた灰色の平屋が、斜面の麓に見下ろせた。湖岸に広がる葉叢の彼方此方に、鎌を携えた人夫たちが屈み込んでいる。甲高い馬の嘶きに驚いたように振り返り、日除けの帽子に隠れた顔が蒼褪めていく音が聞こえるようだ。

「行くぞ!」

 躊躇せず、斜面を一気に駆け下り、無防備な人夫たちに襲い掛かる。握り締めた鎌で抗戦を試みる男の首筋に、呪刀が一閃する。飛沫を上げる鮮血が、隆々たる馬体に深紅の斑を撒き散らし、頭を刈り取られた亡骸が、暗緑色の草原に沈み込んで見えなくなる。

「停止せよ! 此処は帝国軍務庁の管理区域であるぞ!」

 作業を監督していた軍務官が、喉の破れそうな大声で喚き立てた。襟許の徽章は、帝都治安本部蒼衣隊の所属であることを示している。抜き放たれた軍刀を、鞍上から一撃で圧し折り、跳ね飛ばす。くるくると回りながら虚空を劈いた白刃の破片が、動揺の余り棒立ちとなっていた初老の人夫の眼球に突き刺さった。情けない声を上げて顔を覆い、倒れ込む男の胴を馬蹄が容赦なく踏み破り、臓腑を破裂させる。

「停止せよ! 聞こえないのか!」

 猶も叫び続ける軍務官の背後へ、馬蹄の音が迫った。振り向いた軍務官の恐懼に歪んだ顔の前でグイネルの軍刀が一閃し、その胸板を深々と斬り裂く。周囲から悲鳴が上がり、鎌も呪草の束も投げ出して、人夫たちが散り散りに逃げ惑い始める。

「待て! 逃げるな!」

 別の軍務官が青筋を立てて呼び掛けるが、恐慌に陥った人夫たちは誰も振り向かず、立ち止まろうともしない。取り残された軍務官を、屈強な馬体が威圧するように前後から取り囲んだ。血塗られた呪刀が、晩夏の光を浴びて白々と輝いている。

「マドンは何処にいる」

 鞍上から問い掛けるカゲイロンの顔を、軍務官は眩しそうに見上げた。

「お前らは何者だ」

「通りすがりの正義の味方さ。軍人が呪草の密売に乗り出すようじゃ、世も末だな」

「何の話だ」

「恍(とぼ)ける積りか? 人夫どもを捕まえて、口を割らせたっていいんだぜ」

 歯を食い縛り、引き攣った沈黙に逃げ込もうとする男の喉笛に、紅黒く染まった鋒鋩が音もなく添えられる。

「ラルダドラドの連中を刺客に仕立てて、ドレイナを襲わせる。一体、何が目当てだ」

「答えられる訳がない。俺は軍務官だ。情報漏洩は軍法に抵触する」

「裁判が怖えのか。どうせ、生きて帰れる保証なんかねえんだぜ」

「死んでも軍法は遵守する。暴徒に情報を流すなど、軍人の恥だ」

「見上げた根性だ。勇敢な兵隊さんじゃねえか」

 酷薄な笑みを浮かべたまま、カゲイロンは男の蟀谷に呪刀の峰を思い切り叩き込んだ。脳が揺れ、視界が蒼白く歪む。男は堪えかねて地面に膝を突き、濁った唾を吐き捨てた。

「俺は昔、暴徒制圧局にいたんだ。尋問には慣れてるぜ。早く白状しねえと生き地獄だ、勇敢な兵隊さんよ」

 馬から降り、蹲る軍務官の頬を殴りつける。軍帽が飛び、頼りなく倒れ込んだ男の毛髪を掴んで乱暴に起き上がらせる。口の端から滲む血を拭おうともせず、カゲイロンを睨みつける男の顔立ちは、青年の客気を未だ留めていた。

「軍人の矜りを語るなら、悪事の片棒を担ぐのは止せ。お前の崇める大事な軍法は、呪草の密売を認めてねえ」

 唇を強く咬み締め、屈辱に顫えながら、男は猶も挑戦的な眼差しでカゲイロンの説諭に報いた。その胸倉を野太い腕で掴んで、グイネルが至近の距離から罵声を浴びせた。

「さっさと白状しろ! お前ら鋸鎌の悪企みで、ドレイナの同胞が何人死んだと思っているんだ!」

 憎しみの籠った劇しい怒号は、辛うじて保たれていた青年の矜持と虚勢を枯葉のように払い落とした。総身の力を引き剥がされたように黙り込んだ男は、絶望の泥濘へ額ずくように項垂れ、不意に出現した粗暴な闖入者の風体を念入りに見凝め直した。

「マドンは何処だ。素直に答えれば、命までは取らねえ」

 手垢に塗れた科白を口に出しながら、カゲイロンは青年の傍に佇み、その汗ばんだ頬を横切る薄い傷痕を眺めた。終戦以来、帝都治安本部は度重なる抜本的な改組によって陛派の影響力を払拭した筈であった。ガルノシュの暗躍によって再び反動的な堕落が始まった訳だが、この世間知らずにも見える青年が何故、暴君の継嗣に忠誠を誓うようになったのか、その経緯を確かめることは興味深い問題に思われた。

「マドン帥刀官は今、此処にはいない。本部から帰還命令が届いて、三日前の夕刻、帝都へ戻られた」

 軈て観念したように無力な口振りで、青年は俯いたまま自白を選んだ。

「召喚の理由は?」

「其処までは知らない。俺は留守を預かっただけだ」

「黙秘したところで何にもならんぞ。お前が命懸けで機密を守り通しても、マドンがそれに報いると思うのか?」

「落ち着けよ、グイネル。こいつはもう、降伏してるんだ」

「鋸鎌の人間に温情を寄せる積りか」

「違う。白黒はっきりつけてやるさ。俺に任せろ」

 青年を地面に座らせ、後ろ手を荒縄で括って反撃を封じてから、カゲイロンは目線の高さを合わせる為に屈み込んだ。

「召喚の理由は措いとこう。お前、名前は?」

「訊いてどうするんだ」

「堅苦しいことを言うなよ。あんまり焦らすと、気の荒い警事官が黙っちゃいねえぜ」

「気が荒いんじゃない。職務に熱心なだけだ」

「捕虜を手荒く扱うと、ヴァルクリフの雷が落ちるぜ。自重しろよ」

 二人の遣り取りを聞いていた青年の憔悴した口許に、容易に見逃してしまいかねないほどの些細な苦笑が滲んだ。彼は精悍な顔立ちをカゲイロンに向け、燦然たる陽射しに双眸を細めながら言った。

「俺の名はサヴァイム。階級は督刀官だ」

「いい子だ。俺はカゲイロン。帝政監査委員会の人間だ」