読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 6

創作「刃皇紀」

「ガーシュくらい吸わせてくれよ。逃げも隠れもしないからさ」

 手近な葉叢に腰を埋めて胡坐を掻き、不敵な面構えを二人に向けて、サヴァイムは横柄な要求を口に出した。気の荒い警事官の蟀谷に青筋が立つのを視界の端に捉えたが、今更見苦しい命乞いや奴隷紛いの阿諛追従を試みる心境にはなれなかった。禿頭の男は意外にも寛容な態度で、赤銅色に日焼けした相棒に荒縄の拘束を解くように命じた。無論、殊更な謝辞を述べることもなく、寧ろ咎められることを承知の上で態と居丈高に紙巻を銜え、堂々と紫煙を吐き出す。卑屈に振舞えば却って、権高な警事官の役人根性を刺激することになりかねない。いっそ尊大な態度を貫いた方が御互いに清々しいだろうと独り合点して、サヴァイムは大袈裟に両腕を伸ばしてみせた。

「帝都治安本部に属してるんなら、噂は耳にしてるだろう。ガルノシュ・グリイスが帝位の簒奪を狙ってる。知らねえとは言わせねえぜ」

 無作法な喫煙に腹を立てた様子も見せず、カゲイロンと名乗る禿頭の男は淡々とした口調で言い放った。帝政監査委員会の名は、帝都へ駐在する度に幾度も聞かされた覚えがある。雷鳴戦争を閣派の勝利に導いた立役者である殉国隊の幹部が創設した政治結社、その輝ける威光は先般、突如として発せられた解散命令によって終止符を打たれた筈であったが、固より宮廷の暗がりに潜む策士たちの拵えた強引な筋書きの成果である以上、反骨の情熱を滾らせる帝監委の面々が大人しく悪党の謀略に唯々諾々と従う理由はなかったのであろう。

「噂じゃない。紛れもない事実だ。ガルノシュは帝国の覇権を掌握しつつある」

 一瞬、マドンの冷淡で高圧的な面影が脳裡を掠めたが、この期に及んで保身を図るのは馬鹿馬鹿しかった。半ば自暴自棄の状態へ傾きつつある己を危ぶむ気持ちも皆無ではなかったが、何れにせよ帝監委の刺客に大事な呪草地を襲われた責めは引き受けねばならないのだ。そもそも、避け難い懲罰の重さを少しでも減じる為に黙秘を貫けば、マドンの代わりに眼前の粗野な男が残忍な処刑人へ様変わりするに違いない。

「帝都治安本部は、陛派の巣窟へ舞い戻った。メレスヴェル本部長の時代は過ぎ去ってしまったんだ。誰も詔印付きの軍令書には逆らえないのさ」

 投げ遣りな口調で言い放つうちに、知らず知らず咬み締めていた奥歯が石臼のように擦れて不快な音を立てた。三年前、閣派の梟雄として知られたメレスヴェル本部長が不審な病死を遂げ、その後釜にシーゲリ黒衣隊長が収まって以来、帝都治安本部の内情は不吉な変貌を重ねてきた。春影帝の開いた亡国法廷によって戦犯として裁かれ、公職の世界から放逐された筈の陛派庁務官たちが陸続と復権を果たし、絶海の孤島に設けられたゼドフィリアン獄舎から舞い戻るのを、現場の人間たちは手を拱いて眺めることしか出来なかった。誰もが人目を憚りながら口々にガルノシュ・グリイスの策動に就いて噂した。メレスヴェルさえ健在であったなら、此れほど短い間に部内の風土が一変することはなかっただろう。この調子じゃ、遠からず謀叛の烽火が帝都中を埋め尽くすことになるぜ。無論、表立って政務庁掌補の漆黒の下心を指弾することは許されなかった。悪名高き雷声帝の遺児という不利な肩書を背負っているにも拘らず、ガルノシュ・グリイスは紛れもなく実力と威信を兼ね備えた廷臣の筆頭であったからだ。

「お前は陛派の人間じゃねえのか」

 大胆且つ正直な告白を始めたサヴァイムの態度に当惑したのか、カゲイロンが訝るような眼差しを向けてきた。陛派の兵卒と看做されたことへの屈辱に息を詰まらせ、サヴァイムは昂然と面を上げて断言した。

「俺は広域管理軍のゼスト紀兵官に憧れて軍人を志したんだ。根っからの閣派だと思ってもらって構わないぜ」

 南部地方の首府ティゴールに生を享け、帝国弁務庁帝南総督院司ピオルム・エスペルディとレウ・パシニア広域管理長ゼストが嚮導した、雷声帝への激越な抵抗運動の余燼を呼吸して育った彼にとって、春影帝の善政を支持することは骨肉に徹した生得の信仰である。終戦の四年後に錬兵校を卒業し、ビヘイリャという地方都市で三年間に亘って命懸けの新兵訓練を堪え抜いた彼は、そのまま生え抜きの広域管理軍兵士として南部の治安維持に励む覚悟であったが、上官の勧めで修呪館の軍務科に学んだことが契機となり、選りすぐりの呪刀士が集う帝都治安本部蒼衣隊へ異例の転属を果たした。無論、ガルノシュ・グリイスの復権に寄与することを望んだ訳ではない。当時の帝都治安本部長メレスヴェル統刀官は、春影帝の切り拓いた新時代に恋焦がれる若者にとっては神聖な偶像であった。その忠実な下僕として軍役に服することは、サヴァイムにとって望外の幸福に他ならなかったのだ。

「帝都治安本部は、何時から腐り始めたんだ」

「さあね。変化ってのは、当事者にとっては緩慢過ぎて気付き辛いもんさ」

 燃え縮むガーシュの穂先を見凝めながら、サヴァイムは乾いた口調で言い捨てた。着任当時、彼の上官であったカイブル蒼衣隊長は、嘗て紫衣隊士としてセファド・グリイスの逃避行に付き随い、後に春影帝勲章を授与された生粋の閣派軍人であった。新帝の腹心として戦時中の苦難を生き延びたメレスヴェルと共に、カイブルは嘗て陛派の温床として悪名を轟かせた帝都治安本部の陣容の刷新に奔走していた。その精力的な働きぶりは、正しく新時代の幕開けに相応しい清新な情熱に満ちていた。帝国の開闢以来、未曽有の危殆を招いた雷声帝の虐政を二度と甦らせてはならないという切実な決意が、当時の軍務庁には隅々まで漲っていたのだ。それは余りにも多くの悲劇と災禍を踏み越えねばならなかった緑邦帝国の臣民たちに共通する想いであった。胸底に懐いた政治的信条の性質に関わらず、誰もが血腥い戦災の日々に心底倦んでいた。復興への困難な道程も、荒廃する一方であった戦場の陰惨な風景に比べれば遥かに美しく、清らかに見えたものだ。

 然し、三年前のメレスヴェルの急死以来、歴史の歯車は明らかに狂い始めた。敬愛する直属の上官であったカイブルも凡そ一年前に、西部地方の中心都市クラウリーノで呪草の摘発中にヴィオルの襲撃を受け、身許を確かめるのが困難なほど凄惨な暴行を総身に浴びて絶命してしまった。メレスヴェルの後釜には陛派育ちの黒衣隊長シーゲリが任じられ、カイブルの後任には軍務庁陸戦院兵器開発局長のマドン帥刀官が充てられた。何れも奇怪で不吉な人事であると言えた。黒衣隊は戦前、雷声帝の手足として無数の穢れた任務に従事してきた部署であり、メレスヴェルの改革に正面から抵抗する急先鋒として忌み嫌われていたのだ。その邪悪な問題児たちの頭目が、誰も予想しなかった破格の昇進を遂げて、前任者の苦闘の成果を盛んに食い潰し始めたのである。潮位の急激な変化は、誰の眼にも明らかであった。

 一旦決壊してしまった堤防を再建するのは至難の業であり、帝都治安本部長の職権を授かったシーゲリの強硬で横暴な独裁主義は忽ち、濁流の如く部内を覆い尽くした。軍法警務官の異称を持ち、軍規に違反した人間を勾留して軍法訴訟院へ引き渡す役目を担う紅衣隊には、シーゲリの一存でタリズリータという黒衣隊出身の女性軍人が送り込まれ、如何なる奇術を用いたのか、瞬く間に紅衣隊長への階段を昇り詰めてしまった。本来は軍人の腐敗を予防し、綱紀粛正の為に尽力することが彼女の使命なのだが、タリズリータの職務に関する方針は余りに恣意的で独断的なものであった。防帝特権の詔命状を楯に、あらゆる活動内容を「軍機」の暗闇へ押し隠して開示しようとしない黒衣隊の暴走には、帝都治安本部の内外から批判的な意見が絶えず寄せられていたが、新任の紅衣隊長は詔命状の絶対的な権威と効力に就いて高圧的な弁護を繰り広げるばかりで、黒衣隊の閉鎖的な体質を改善することには極めて禁欲的な姿勢を貫いた。

 俺たちは余りにも純粋にメレスヴェル本部長の辣腕を信頼し過ぎたのかも知れないという苦々しい後悔と反省が、時折サヴァイムの魂を掠め、憂鬱な疼痛を生じさせた。雷声帝の虐政を転覆させるという未曽有の難業に成功した人々ならば、必ず俺たちを素晴らしい未来へと導いてくれるに違いないという素朴な信仰が却って仇となり、メレスヴェルが退場しただけで忽ち改革と刷新の機運は停滞し、頓挫してしまったのだ。何もかも英雄に委ねて無造作に頼り切った結果が、この脆弱な新時代を築き上げた。その代償は自分たちが支払う以外に途はないが、一挙に推し進められた退嬰的な堕落を浄化する為の妙案は誰の頭にも浮かばぬままであった。

「マドンは何故、蒼衣隊長に任じられたんだ」

 エトルースと名乗る赤銅色の肌を備えた男が至極尤もな疑問を口にした。雷声帝の御世からずっと、帝国軍務庁兵器開発局を統括する天才的な技官としての声価を高め続けてきた彼が、呪草の摘発という全く畑違いの職場へ転属を命じられた直接の背景には、半年前に発覚した軍機の漏洩という醜聞が存在していた。生き甲斐とも言える兵器開発の現場から退去させられたマドンの人事に、軍務庁の高官たちが懲戒の意図を籠めていたことは明白である。だが、それにしても何故、蒼衣隊なのか? しかも隊長自ら、ラルドー湖畔の呪草地へ乗り込んでヴィオルを蹴散らし、その既得権益を収奪することに血道を上げるとは、如何にも奇妙な成り行きである。

「真相は闇の中さ」

「憶測くらいは立てられるだろ」

 韜晦を許さぬカゲイロンの高圧的な眼光に射竦められて、迂遠な言い逃れを試みる意欲を削がれたサヴァイムは、深い溜息を吐いて双手を掲げた。

「此間、帝都で錬兵校時代の同窓生と酒を酌み交わす機会があった。兵器開発局でマドン帥刀官の助手を務めていた男だ」

 結局、二十年前の戦争は何一つ根本的な解決を齎さなかったということだろうか。春影帝の一声で戦犯縁者赦免令が発布されても陛派の残党に対する世間の風当たりが衰えなかったように、結局は親の世代が属した政治的派閥が、次世代の人々の思想と心理に決定的な影響を及ぼすことは避けられなかったのだ。

「隊長の父親は、雷声帝政権下で帝領ゲルチェン管理軍の綜紀兵官を務めていたボルゾックだ。要は、親譲りの頑迷な陛派軍人って訳さ」