サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 1

 日付の変更を告げる闌刻鐘の暗鬱な響きを合図に、それまで暗がりに身を潜めていた夥しい数の武装した悪漢たちが、洞々たる闇を殺意に揺るがせて走り出した。遅かれ早かれ警事局や軍事局の役人に騒擾を悟られるとしても、当面は成る可く周囲の関心を惹かぬように夜陰に乗じて事を運ぶものと思い込んでいたラシルドは、狂暴な本性を剥き出しにして喊声を迸らせるペンブロード家の暴徒たちの異様な剣幕に意表を衝かれ、路傍に寄って小走りに進みながら頭を振った。

「一体何を考えているのか。態々官憲の気を惹いて、何の利益がある」

「表立って騒げるものだから、嬉しくて頭に血が上ってるんでしょう。本当に、救い難い馬鹿ばっかり」

 寝静まったパーヴォ地区の暗闇を乱暴に引き裂く男たちの怒号に、フェロシュは苛立ちを禁じ得なかった。この街の秩序を裏側から支えている闇守たちの政治的均衡は、容易く踏み躙られるようなことがあってはならない重要な礎石のようなものだ。帝都から派遣された官庁の役人たちが握り締めている表向きの権威と釣り合うような形で、この薄汚れた都市の統制を担ってきた闇守の手柄は、それが無数の醜怪な罪障に塗れたものであるにせよ、一定の評価に値する。今回の抗争が、そうした過去の実績を粉微塵に打ち砕く致命的な事件に発展しかねないことを、血に飢えた暴漢たちは精確に認識しているのであろうか。肩で風を切って街路を闊歩するヴィオルの威圧的な風貌に気兼ねして、日頃は余り口喧しいことを言わずに済ましている役人たちも、闇守の双璧が国法への明白な抵触に他ならない大規模な騒擾行為を惹起したと知れば、決して大人しく黙認するようなことはあるまい。

「だが、それがアラルファン・ヴィオルの選んだ道ということだ」

 狂ったように騒ぎ立てるヴィオルたちの殺気立った姿に陰鬱な眼差しを向けながら、ラシルドは咬み締めるように呟いた。

「今更、どうにもならないだろう。一度回り始めた水車を押し留めるには、川の流れが速過ぎる」

「ええ。良くも悪くも、突っ走るしかないわ」

 ムジークというイストリッターの食客が本当にガルノシュ・グリイスの手駒であり、アラルファンの秩序を壊乱に導く為に放たれた飼い犬であるとするならば、遅かれ早かれ荒療治は避けられないのだ。官憲の機嫌を損ね、態々政府に鎮圧と迫害の口実を与えるのは愚行以外の何物でもないが、長い間、この街を牛耳り、隠然たる権力を恣にしてきたヴィオルたちの抱え込んだ暗闇を切開し、摘出する絶好の機会であるとも言える。願わくばペンブロードとイストリッターには共倒れしてもらいたい、そうすればアラルファンの呪われた伝統は断ち切られ、正義と律法が積み重なった瓦礫の上に華々しく樹立されるであろう。

(そう考えるのは、私情が勝ち過ぎるかしら)

 二十年以上前に総身へ刺青の如く刻み込まれた怨恨の熱っぽい手触りは、故郷の危機に直面した今でも決して忌まわしい過去を水に流そうとはしない。だが、ヴィオルによる非合法の統治が粉砕された後、ガルノシュが闇守の末裔たちに加えるであろう苛烈な弾圧に就いて妄想を膨らませてみると、そうした急進的な発想の正しさを全面的に信じる気分にもなれなかった。ヴィオルを守るべきか、滅ぼすべきか、単純明快な二者択一に総ての命運を委ねてしまうのは、自暴自棄の謗りを免かれないであろう。

(どうせ、此処まで来たら結論を出すしかないのよ)

 記憶の片隅に引っ掛かって呑み込めずにいた複数の感情と想念が、葉脈のように絡み合って解けなくなっている。それは二十年以上、フェロシュの魂を呪縛し続けてきた逃れ難い宿痾であった。生まれ育ったアラルファンの独特な風土に対する両義的な感情、境目を失って止め処なく混じり合った郷愁と憎悪を、そろそろ根本的に片付けてしまいたいと願うのも、彼女の精神にとっては偽らざる真実である。だが、何れの道を選び取っても、それが正解であると心の底から確信することは困難であるように思われた。普遍的な正答など有り得ないことは、帝国の長い歴史が様々な先例を以て明瞭に告示している。ヴィオルを庇っても滅ぼしても、幼年期の魂に痣のように刻み込まれた暗い情念が消え去ることはない。そうやって何時も、彼女の苦悩は果てしない堂々巡りを続けるのであった。

 だが、フェロシュの苦悩に具体的な輪郭を備えた答えが与えられないのは、彼女自身が遥か昔に見限った故郷の現実に、正面から向き合ってこなかったことの結果であるとも言えた。アラルファンの石畳を踏み締めることさえ臆病にも忌避し続け、嘗ての同胞や配下の末路に切実な関心を懐こうともせず、彼女はこの二十年間、ずっと帝都に根を張り続けてきた。過ぎ去った日々の苛酷な記憶は、ナイフで削り取る代わりに視界の外部へ追い出して厳重に遠ざけた。総ては終わってしまったこと、動かし難い歴史的事実なのだと愁いを帯びた瞳で言い張っておけば、周りも相応の気遣いを示して、無粋な深入りを遠慮してくれる。或いは腫物を扱うように遠巻きにしてくれる。アラルファンは地獄であり、闇の吹き溜まりだと喧伝して嘲笑っていれば、誰もが頷いて話を合わせてくれる。だが、そうやって日月を閲するうちに少しずつ濃縮されていく名状し難い違和感に、彼女の心は盲目的な態度を貫き得なかった。生まれ育ったアラルファンを、本当に憎んでいるのであろうか? 滅びても構わない、いっそ総て洗い流して更地に戻してしまえばいいと、全身全霊で希っているのであろうか? そうした自問に、彼女はどうしても適切な答えを返すことが出来なかった。私は本当は、何を望んでいるのだろう? 浮草のように見知らぬ土地を漂流して、時が満ちれば枯死するだけだと嘯いてみせるのは、単なる虚勢に過ぎないのではないか?

「もう、本当にうんざりだわ」

 轟々と吹き荒れる夜嵐のようなヴィオルたちの奔流を睨み据えながら、フェロシュは頭を振って項垂れた。思った通りに運ばない現実の理不尽な手強さに苛立ったのではない。それらの現実に巻き込まれて右往左往し続ける己の愚かさと惨めさに、息が詰まりそうになったのだ。

「どうした、具合が悪いのか」

 フェロシュの胸中を何も知らないネルイガーが暢気な口調で訊ねるのを、彼女は冷淡な横目で無造作に払い除けた。

「生憎、体調は万全よ。行きましょう。流れに乗り遅れるわ」

「何だよ、心配してやったのに」

「誰も頼んでないわ」

「フェロシュ。落ち着くんだ。彼には何の落ち度もない」

 必要以上に尖ってみせるフェロシュの昔乍らの悪癖を今も心得ているのか、ラシルドの口調には諭すような優しさが秘められていた。その思い遣りに却って刺激されるように、二十年が過ぎても未だ成熟とは無縁の刺々しさを手放すことの出来ない自分の幼さが、我ながら不快に感じられた。

 

 イストリッター家の宏壮な屋敷を封じる、厳めしい造りの正門を守っていた警衛の眉間は、突如として押し寄せた暴漢の手で瞬く間に叩き割られ、撒き散らされた脳漿が年季の入った敷石道の表面を生々しく穢した。重厚な鉄柵の扉は男たちの頑強な手足に押し破られ、金具を据え付けた石壁諸共、派手な音を響かせて倒壊した。異変を察知して邸内から飛び出してきたイストリッター家のヴィオルたちは、血に飢えた暴徒の集団に面食らって、吹き荒れる暗刃の嵐に効果的に立ち向かう精神的余裕を持たなかった。斬り伏せられた無惨な亡骸が敷石道に沿って陸続と積み重なり、炸裂する怒号と罵声が混じり合って、手入れの行き届いた閑静な庭園は本来の高雅な面影を完全に剥奪されてしまった。

「破れかぶれの突貫を、襲撃という言葉で呼ぶことには賛成出来ないな」

 阿鼻叫喚の修羅場を目の当たりにしながら、ラシルドは巻き添えを喰わないように正門の様子を見守り、事態の成り行きを慎重に見定めるべく眼を凝らした。暗刃を握り締めて喚き立てるヴィオルの男たちの姿は、計画的に統制された兵卒の動きとは到底比較にならない効率の悪さだ。敵と味方を明確に区別しているのかどうかも疑わしい騒然たる混戦の渦中で、死傷者の数ばかりが刻々と増え続けていく。

「御祭り騒ぎだと勘違いしてるんだわ、きっと」

「教えてやらなきゃならないな、フェロシュ。この抗争が孕む両義的な意味に就いて」

「こんな悪童どもの面倒を見る気にはなれません。あたしは冷たい性格ですから」

「余り騒ぎ過ぎて、警務官に素性を掴まれても面倒だ。さっさと役目を果たそう」

 喉笛を掻き切られ、千切れた動脈から深紅の鮮血を噴き上げるヴィオルの絶望的な叫び声が鼓膜を掠める。庭の下生えに頭から突っ伏して、斬り裂かれた脇腹から臓物を覗かせている若い男の屍体も見える。辺りには血煙が濛々と舞い立ち、人々の異常な熱気で今にも噎せ返りそうな状態であった。夜半の微睡みに沈み込もうとしていた邸宅のあらゆる窓に燈光が瞬き、敵意を沸騰させた眼差しが粗野な闖入者たちの頭上へ彗星の如く降り注いだ。誰もが興奮し、狂乱し、制御の利かなくなった野蛮な衝動に脳髄を鷲掴みにされている。この期に及んで、アラルファンの政治的均衡や官公庁との関係に就いて繊細な思索を巡らせようと試みる沈着な賢者の登場を期待するのは無益である。

「雑魚に構っても仕方ない。さっさとムジークを仕留めるんだ」

 ラシルドの指示に従って、フェロシュとネルイガーは奔騰する悪意と憎しみの坩堝を機敏な動作で縫うように駆け抜けた。正面の母屋の扉が開き、厳重に武装したイストリッターの兵隊たちが荒々しい喊声を迸らせながら押し寄せてくるのを視界の端に捉え、不毛な乱闘を回避する為に滑らかに進路を革める。鞘を掴んで何時でも速やかに抜刀出来るよう身構えながら、疾風の速度で格闘する男たちの狭間を通り抜け、周囲の建物に眼を凝らす。コートフェイドの説明によれば、ムジークの居室は邸内の北端に位置する離れの二階に設けられているらしい。そこまで最小限の時間と損害を保って辿り着くことが、今の彼らに課せられた最大の使命であった。