サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 2

 四方八方から白刃の咬み合う鋭利な音響が飛び交い、どすの利いた唸り声が犇めき合う敵手を恫喝する為に次々と鼓膜を突き上げてくる中を、三人は息を殺して俊敏な蜘蛛のように音もなく走り抜けた。誰もが乱闘に夢中で、視界に入り込む積年の宿敵を公然と斬り殺せる歓びと興奮に眼球を曇らせている。今回の襲撃の目的さえ失念してしまったかのように、無軌道な殺戮が深更の邸宅を隅々まで領している。フェロシュは不意に進路へ飛び出して来たイストリッターの若い男の後頭部に肘打ちを叩き込み、邪険に払い除けた。

「あの建物だ。離れの二階、北西の角部屋だったな」

 ラシルドの指差した先に、白壁の瀟洒な建物が黙然と聳えていた。コートフェイドの話では、主に客人を迎えるときに用いられる宿舎のような施設で、普段は余り人の出入りがないという。北西の角部屋に起居するムジークの狷介で傍若無人な気質を忌み嫌って、誰も好んで近寄らないらしい。母屋を筆頭に広大な敷地の中へ点在する他の建物は何れも煌々たる窓明かりを輝かせて、突如として巻き起こった不吉な騒乱への警戒心を露わに漲らせているが、北端の離れだけは殆どの窓が帷帳に遮られて、夜更けの沈黙を守り通している。館の周辺にも人影は殆ど見当たらず、ムジークが在室しているのか疑わしくなるような閑散たる眺めであった。

「行くぞ。逃げ出されたら厄介だ」

 細い敷石道に面した一階正面の扉は施錠されていた。磨き抜かれた立派な蝶番を直に破壊することは諦め、分厚い樫の木で造られた扉の中ほどへ代わる代わる体当たりを食らわせる。十回ほどで錠前の内部の機構が壊れ、扉の縁に僅かな隙間が生じたところへ更に追い討ちを掛けると、変形した扉は悲鳴のような音を奏でて押し開かれた。

「誰もいないのか」

 蛍火のようにぼんやりとした灯りの下に、何も置かれていない索然たる沓脱の石畳が横たわっているのが見えた。グリシオン人の社会では、建物の内部で履き物を脱ぐという習慣は一般的ではないが、アラール人の古い伝統を受け継ぐ闇守たちの住居には大抵の場合、立派な沓脱の土間が設けられて、数百年来の祖先の作法を継承していることを誇示するのが通例となっている。

 夜更けを迎えた館内の歩廊には古びた啌気燈の薄弱な光が漂い、幽冥界を想わせる不穏な空気を形作っていた。静まり返った暗がりを掻き乱すのは戸外から押し寄せてくる騒擾の物音だけで、人影が視界を横切る気配すら感じられない。

「北西の角部屋、灯りが漏れていたな?」

 慎重に辺りの様子を窺いながらラシルドが問い掛けると、他の二人は無言で同意を示した。

「何を考えているのか知らないが、表が大騒ぎだというのに、自室へ引っ込んだままということか」

「仮にムジークが陛派の領袖から派遣された飼い犬だとすれば、日和見を決め込んでも不自然じゃない。そうだろ?」

 ネルイガーがフェロシュの横顔を警戒するように一瞥した上で、至極冷静な意見を吐いた。彼の言う通り、ムジークがアラルファンの秩序を壊乱に導く為の仕掛人であるという仮説が真実を言い当てているのだとすれば、敵対する勢力の大規模な襲撃という緊急の局面に際して前線へ赴かないのは当然の判断である。自らが火種を撒いた血腥い抗争の現場へ暢気に出向いて、態々命を危険に晒す必要は毫もない。

「だったら、寧ろ話が早い。余所者を交えずに、水入らずで議論が出来る」

「議論だって?」

 ラシルドの発言に意表を衝かれた様子で、ネルイガーが語尾を尻上がりに高ぶらせた。

「こんな状況で、何を議論するって言うんだ。捻じ伏せるだけでいいだろう。それで報酬は弾んでもらえるんだ」

「生憎、私たちの目的はペンブロードから莫大な対価を引き出すことではない」

 ラシルドは齢の離れた束の間の同僚の顔を動じることなく正面から見凝めて、穏健な口調ではっきりと方針を告げた。

「じゃあ、何だって言うんだ」

 年嵩の男に対する世間並みの敬意を投げ捨てたように、ネルイガーは眉間に皺を寄せて語気を強めた。

「色々と混じり合っている。総てを君に説明する訳にはいかない」

「納得が行かないな。そっちの思惑がどうであれ、今この瞬間、俺たちは共闘しているんだ。多数決で勝手に方針を捻じ曲げられたら、こっちは堪ったもんじゃない」

「路銀が欲しいのなら、呉れてやるさ」

 興奮する青年の客気を払い除けるように、ラシルドは懐中から札入れを取り出して数枚の紙幣をネルイガーの鼻先へ提示した。

「此れを持って、北の壁を乗り越えて逃げ出せ。コートフェイドには隠しておいてやろう。君に対しては何の恨みもないからな。今後はもう少し冷静に物事を分析する習慣を身に着けるといい。路銀の為に、堅気でもない連中の世界へ嘴を差し入れるのは愚か者の遣ることだ」

 敢えて攻撃的な言辞を選んだのは、深い繋がりがある訳でもない眼前の青年を、フェロシュの個人的な野心に巻き込まない為の方便であった。旅費を稼ぐ為に安易な覚悟でアラルファンの暗部へ迷い込んだ若者を、陛派の間者と思しき不埒な男との対決に引き入れるのは健全な選択ではない。余計な手間を掛けさせられるくらいなら、本番が幕を開ける前に速やかに退場してもらった方が好都合である。だが、事態はラシルドの想定とは異質な方向へ逸れてしまった。

「馬鹿にしないでくれ。俺は守銭奴じゃないんだ」

 ラシルドの差し出した紙幣を乱暴に押し戻して、ネルイガーは憤怒に瞳を燃え立たせた。

「俺のことを深く知っている訳でもないのに、一方的に決め付けるのは止してくれ」

「路銀を稼ぐ為だと言ったのは、君自身だろう」

「見ず知らずの他人に何もかも打ち明けるような間抜けに見えるとでも言うのか」

 若者らしい刺々しさを全面に押し出して、ネルイガーはラシルドに詰め寄った。燦然と輝く柑子色の瞳に映し出された激情は、彼の高潔な矜持を歴然と物語っていた。

「秘密にしなけりゃならない問題を抱えているのは、御互い様だろう。俺は単なる流氓じゃない。目的があって帝都へ向かっている。見下される筋合いはない」

「悪かった。君の志を疑う訳ではないんだ。許してくれないか」

 落ち着いた口調で素直に詫びを入れると、明るい柑子色の双眸は忽ち攻撃的な光を薄れさせた。傍らで二人の遣り取りを眺めていたフェロシュが、意地の悪い笑みを滲ませてラシルドの脇腹を突いた。

「何だか二十年前のマルヴェを思い出しますね。年下の跳ねっ返りに手を焼かされるのは、きっと隊長の星回りなんだわ」

「安手の占い師紛いの口を利くのは止せ。それに跳ねっ返りだったのはマルヴェだけじゃない。お前も二十年前と少しも変わっていないぞ、自覚はないのか」

「ありますよ。だから面白いんじゃないですか」

「悪趣味な奴め」

 フェロシュの軽口に付き合うのは時間の浪費だと思い至り、ラシルドは適当に話を切り上げて再びネルイガーの顔を見据えた。

「ムジークという男を仕留めるだけでは、私たちの目的は達成されない。その背後に広がっている厄介な地下茎を手繰り寄せて、総ての元凶に辿り着かなければならないんだ。今は此れ以上、詳しいことは話せないが、議論が出来ると言った背景には、相応の事情があるということを理解してもらいたい」

「別に、そっちの事情を理解したくないとは思っていないさ」

 俄かに理性の留め金を振り切ってしまった己の短慮が今更気恥ずかしくなったのか、ネルイガーは眼を逸らして吐き捨てるように呟いた。

「金儲けが目当てという訳じゃないのは、俺も同じだ」

「分かった。力を貸してくれるか」

「今更、一人だけ尻尾を巻いて逃げ出せる訳がないだろ」

「頼むぞ」

 俯いて唇を咬み締めるネルイガーの横顔を見据えながら、ラシルドは思わず口許を綻ばせた。フェロシュの揶揄するような言葉が鼓膜の内側に反響する。二十年前、マルヴェもフェロシュも手に負えぬほど若く、荒々しく、純粋であった。今では五体の隅々に老年の徴候を嗅ぎ取りつつある自分も、あの当時は遥かに精悍で、無鉄砲な情熱と野望を燃え上がらせていたものだ。

 口論を切り上げた後、三人は確りと唇を引き結んで黙り込み、靴音を殺して誰の姿も見当たらない陰鬱な廊下を進んだ。直ぐに階段が見つかり、静まり返った闇の奥底に動き回る人間の気配を探ってみるが、手応えは皆無であった。

「罠である可能性を、懸念すべきだと思うか?」

 ラシルドの慎重な問い掛けに、フェロシュは肩を竦めて首を振った。

「表の騒動を見る限り、イストリッターの側には何の備えもなかった。ムジークだけが、総てを見通していたとは思えません」

「謀略の地下茎が何処へ通じているのか、定かではないことも事実だろう」

「襲撃を予測しながら、敢えて伏せていたと?」

「ムジークの狙いが騒動の火の手を強めることならば、有り得ない選択肢ではない」

「だとしたら、ハイディールも随分、焼きが回ったようですね」

 アラルファンに巣食うヴィオルの首領たちの中でも一際華やかな名声を誇るイストリッター家の家頭ハイディールは二十年前、自ら義勇軍を組織して雷声帝アイルレイズの圧政と横暴に立ち向かった筋金入りの反帝主義者である。但し、異民族への弾圧を金科玉条とする残忍な雷声帝政権の転覆に乗り出したセファド・グリイス、後の春影帝に対しては友好的な感情を懐いており、宮廷との繋がりの強さは侮り難い水準に達している。強大な犯罪者の集団を統べる人物でありながら、その紳士的で穏健な物腰は貴人の風格さえも帯びており、五年前に崩御した春影帝からの信頼も非常に篤かったと言われる。

「或いは、ムジークという男の手管が図抜けているということかも知れん」

「陛派の手駒に懐へ忍び込まれても気付かないなんて、有り得ないわ」

「所詮は何を言っても憶測に過ぎんさ。獲物は直ぐ近くにいるんだ。さっさと捕えて、洗い浚い白状させようじゃないか」

 不敵な笑いを浮かべて言い放つと、ラシルドは表情を引き締め、不吉な闇に溶け込んだ古びた階段へ硬い靴底をゆっくりと押し当てた。