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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 3

「ペンブロードの連中か」

 窓辺を覆う華美な帷帳の端を捲って戸外の様子を確かめた後、ムジークは直ちに総てを了解した。三年に及んだ長い雌伏と播種の努力が、漸く収穫の季節を迎えたという訳だ。ティリアを攫えば、年老いても情欲の滾り立つ焔を御する力を養えずにいる盆暗の家頭が発狂することは、最初から眼に見えていた。思惑通りに事が運んだという意味では、勝負の軍配はムジークの側へ掲げられたと言えるであろう。だが、暢気に歓んでばかりもいられない。此れから煩雑で面倒な後始末に着手しなければならないし、何よりティリアとの秘められた愉しみを妨げられるのは、不愉快極まりない経験であった。

 寝台に視線を戻すと、ティリアの濡れた瞳が騒音の鳴り響く窓を喰い入るように見凝めていた。その横顔は、無惨にも打ち砕かれていく尊厳の堪え難い痛みに顫える女のそれではない。ムジークは思わず舌打ちした。さっきまで、この女の表情は最高だった。崩れ落ちていく矜持の、悲鳴のような軋み。高潔な魂が絶望の泥濘に溺れて、手足を振り回す毎に一層深く沈み込んでいく瞬間の、荒々しい息遣い。然し、鳴り渡るペンブロードの男たちの下品な喊声を耳にした途端、彼女の双眸には翼を広げた海鳥のような希望が燦然と甦ってしまった。未来を信じ、己を信じ切っている人間に固有の、退屈で傲慢な顔色だ。

「助かると、決まった訳じゃない」

 恫喝の声色が、冷えた油のようにティリアの耳孔へゆっくりと染み入る。鬩ぎ合う希望と屈従の狭間で、女の瞳は稀少な宝珠のように目紛しく色彩を移ろわせた。

「俺が今、この瞬間に刀を抜き、お前の喉笛へ突き立てれば、総てが終わる。生殺与奪の権利は、この手に握られているということを忘れるな」

「あんたは一体、何者なの」

「何者?」

「何の為に、こんな馬鹿げた行為に手を染めているの。ペンブロードの家頭の養女に手を出せば、どれほど大きな揉め事が巻き起こるか、予測がついていない訳じゃないでしょう」

 劇しい屈辱の感情に追い詰められて猶、沈着な理性を辛うじて保ってまま口を開いたティリアの秀麗な眉目を見下ろしながら、ムジークは口の端を禍々しく持ち上げた。

「そんなことを今更探って、お前に何の利益がある」

「答えられないの。あんたは、イストリッターの人間じゃないから、何も分かっていないんでしょう」

「何を分かっていないと言うんだ」

「アラルファンの仕来りよ。ヴィオルが受け継いできた矜りと掟よ。単なる流れ者の食客には決して理解出来ない筈だわ。この街の秩序は、闇守の末裔たちの協調によって支えられてきたのよ」

「お前も北部の農村から買い取られた、泥塗れの田舎者だろう。何も知らないのは、御互い様だ」

「違うわ。あたしには分かる。この肌で、この眼で、ずっと闇守たちの暮らしを見凝めてきたのよ」

「淫売が何を吼えやがる」

 ムジークは迫り上がる苛立ちを咬み殺しつつ、寝台の縁に膝を突いて、胸許を開(はだ)けたティリアの枕許へ脅すように片腕を突き立てた。

「闇守どもの盟約で、この薄汚い街の統治が成り立ってることぐらい、お前に教えてもらわなくとも心得ているさ。いいか、ティリア。だからこそ俺は、この街を根こそぎ打っ壊しに来たんだ。何もかも掻き回して、滅茶苦茶にしてやるのが、俺に課せられた使命だ」

「誰の差し金なの」

「訊き出してどうする。無事に生き延びて、グラムホールに垂れ込む積りか?」

「そうよ。このまま、あんたの好き勝手にはさせないわ。闇守の矜りは、下らない悪企みに突き崩されたりしないのよ」

「大した信頼だ。だが、誰も運命には逆らえない。アラルファン・ヴィオルの数百年来の独裁を、帝国政府の御偉方が何時までも尊重してくれると思うのか?」

 色鮮やかな唇を咬み締めて、ティリアは口を噤んだ。助けが来るまで少しでも時間を稼ごうと、不慣れな議論を仕掛け、ムジークの高慢な鼻柱を打ち砕くべく格闘を試みたものの、固より辺鄙な農村から掘り出され、グラムホールの手で泥を払われた後は所謂「深窓の令嬢」としての閉鎖的な生活を強いられ続けてきた彼女の頭脳に、精密な政治的知識が充填されている筈もない。帝都の重臣たちが、アラルファンを牛耳る札付きの悪党たちに好意的な視線を寄せているとは思っていないが、例えばイストリッターの家頭ハイディールは雷鳴戦争の英雄の一人として、遥かなる宮中にも豊富な人脈を築いていると聞いたことがある。繁華な街衢を傲然と練り歩く途次、頻々と擦れ違う政府の役人たちも、ペンブロード家の輝ける威光には一定の敬意を表しているように見える。無論、面従腹背は現し世の理であるとしても、本当に気に入らないなら公権力を存分に駆使して、忌まわしい闇守の末裔たちの駆逐と追放に血道を上げればいいではないか。敢えて彼らが弾圧を望まないのは、政府と闇守との間に何らかの癒着、或いは共益的な関係が成り立っていることの証左ではないのか。

 だが、政治に関しては聞き齧った半可通の知識しか有していない彼女の耳に、ムジークの昂然たる確信に支えられた口吻は抗い難い不吉さを備えているように聞こえた。この薄汚れた土地は嘗て、アラール人たちの築き上げた国家の首府であったが、強大な騎兵隊を擁する緑邦帝国の軍勢によって攻め滅ぼされ、由緒ある王室の伝統は素気なく断ち切られた。生き残った闇守の人々は昔日の君恩に報いるべく、侵略者の圧政に堂々と反旗を翻し、熾烈な抵抗を繰り広げた。帝国政府は決してヴィオルの権威に正統性を認めようとはしなかったが、余りにも苛烈な闘争を永年に亘って繰り広げるより、適切な範囲内で折り合った方が賢明であるという政治的判断を下した。その結果、ヴィオルの権勢は増長の一途を辿り、国法に叛いて私的な裁量で住人の生死さえ左右するほどの過分な支配力を、闇守十人衆の末裔たちに齎すこととなった。

 アラルファンの人々にとって、ヴィオルの威光の絶対的な堅牢さは疑う必要のないものであった。広い世界を知らないティリアにとっても、自分を飼い馴らし、度重なる調教と贅沢な庇護を強いてきたペンブロード家の栄華に曇りを見出すことは困難であった。然し、それが帝国全土に通用する普遍的な認識であるかと問われれば、胸を張って肯える根拠は何一つ存在しなかった。トレダ村で初めてグラムホールと対面した当時、彼女の意識の中でアラルファン・ヴィオルの地位は極めて低く、その印象は暗鬱で陰惨なものであった。長い間、アラルファンの暗闇で豪奢な暮らしを深刻な屈辱と引き換えに宛がわれ続けてきた所為で、正常な判断力を失ってしまったのであろうか? ティリアの眼裏に、寂れた郷里の痩せ衰えた耕地の風景が久方振りに甦った。ヴィオルは、尊崇されるべき正統の支配者であろうか? いや、そんな筈はない。知り合った当初のグラムホールは、脂ぎった巨体に酒と香水の匂いを纏った性悪の女衒に過ぎなかった。悪党たちの集団が何時までも不変の栄光を謳歌し続けることが出来るとは思えない。ティリアは改めてムジークの血色の悪い顔を睨み据えた。この男も、結局は同類だ。人の命を踏み躙り、弱い者を手玉に取って、歪んだ私利私欲を満たすことにばかり情熱を燃え立たせる。ヴィオルの栄華が未来永劫保たれると思い込むのは本来、愚かしい盲信に過ぎないのだ。

 然し、闇守の血を引いて生まれた訳ではないのに、ティリアの心は醜悪な犯罪を積み重ねるヴィオルたちへの親密な感情を断ち切ることが出来なかった。帝国政府の要人たちが、アラルファンの街衢を我が物顔で闊歩し、行政局の基準とは無関係な縄張りに固執して小競り合いを繰り返す闇守の末裔たちに、敵意に満ちた眼差しを寄せるのは止むを得ないが、その悪行ゆえに周囲から憎まれ、蔑まれ、疎んじられる存在だとしても、彼女自身は闇守十人衆の一族に純粋な悪意を差し向けることは出来なかった。良くも悪くも、この土地で育まれ、培われた日々の記憶から今更逃げ出すことなど考えられない。総てを灰燼に帰し、再び泥塗れの根菜のような昔日の少女へ身も心も革めることは絶対に不可能なのだ。

「気付いたか。自分の足場の、思わぬ脆さに。ペンブロードだろうと、イストリッターだろうと、闇守十人衆の威光を有難がってるのは、この街の住人だけだ。世間はそんなもの、歯牙にも掛けない」

 ムジークは邪悪な吐息を撒き散らしながら、横たわるティリアの華奢な胴へ跨り、天井から降り注ぐ暖色の燈光を遮るように彼女の顔を見下ろした。乱れた肌着から覗く滑らかな純白の胸乳が、早鐘のような呼吸に合わせて神経質に顫えている。

「闇守の双璧が表立って抗争に踏み切った。この事実を、狡猾な役人どもが看過すると思うか? どちらが勝とうと、弾圧の序曲の始まりであることに変わりはない。何もかも手遅れだ。籠の中の鳥は、焔に巻かれて焼け死ぬだけさ」

 ムジークの不快な指先から逃れようと身を捩る度に、手足を縛り付けられた寝台が虚しく軋む。間近で感じる男の穢れた吐息に四肢が残らず総毛立つ。眦から堰を切ったように流れ落ちる生温かい感触が、堪え切れずに流した自分の涙だと気付くまで、若干の時間を要した。こんな風に、屈辱と絶望に嬲られて泣き出したのは、人買いに連れられて郷里の村を発った日以来のことだ。初めて閨で夜伽を命じられたときには既に、沙漠の井戸のように内なる哀しみは涸れていた。爾来、ずっと心の表面は鞣した皮革のような鈍感さを保ち続けてきたのだ。

(それさえ、終わりになるのかしら)

 それが無数の艱難辛苦に埋もれた道程であったとしても、アラルファンにおける生活は紛れもなく、彼女の人生の重要な側面を領していた。父母を捨て、弟妹と離れて踏み込んだ異郷の日々は、傍目には醜悪な奴隷の半生であったかも知れない。だが、彼女は後悔を知らなかった。どんな宿命も、受け容れてしまえばそれが己の歩むべき道筋となる。そう考えると一層、ムジークの呪詛にも似た言葉の数々は堪え難い悲哀に転じて、彼女の胸底を深々と刺し貫いた。

「誰だ」

 そのとき、顎に添えられていたムジークの指が不意に解かれ、苛立たしげな声が鼓膜を打った。何事か理解出来ずに茫然と濡れた瞳を天井に向けていると、部屋の戸を叩く無遠慮な物音が連なって聞こえた。