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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 4

 開かれた扉の隙間から姿を現した若い女の露わな胸許に、ラシルドは面食らって踵を返しかけた。女の頬には涙の筋が羅(うすもの)の切れ端のように浮かび、その眼差しは見知らぬ闖入者への警戒心を漲らせて鋭く引き締まっている。

「誰なの」

 尖った声音に滲み出る敵意は疑いようがないが、その険しい表情とは裏腹に、潤んだ瞳には繊弱な恐懼の欠片が舞っていた。美しい女だ。恐らくは首斬りに雇われた腹黒い食客ムジークが連れ去った、グラムホールの養女ティリアであろう。

「フェロシュ」

 開けた肌着の裂け目から慎重に視線を逸らしつつ、ラシルドは抑制された低い声で傍らの女に命じた。

「この女を連れて行け」

 ラシルドの意図を態々問い返す必要も感じぬままに、フェロシュは軽く頷いて女の華奢な腕へ手を伸ばして力強く掴んだ。女の細い手頸に紅く擦れたような痣が浮かび上がっているのを目敏く確かめ、奥歯を咬み締める。虜囚の辱めを蒙った気高い闇守の妾は、驚いたように腕を引いて見知らぬ訪客の無作法な振舞いに抗う姿勢を示した。

「触らないで! 一体、何者なの」

「敵じゃないわ。暴れないで、面倒なことになる」

 女の懸命な抵抗は、鍛え抜かれたフェロシュの膂力の前では余りに頼りなく、脆弱であった。そのまま腕尽くで暗い廊下へ引き摺り出そうとすると、部屋の奥から静謐な敵意を帯びた男の声が飛んできた。

「他人の女に手を出すとは、一体どういう料簡だ」

 有無を言わさず背後へ突き飛ばしたティリアが情け無い悲鳴を上げて倒れ掛かるのを、ネルイガーが反射的に抱き留めた。宿命的な貧しさに付け込まれ、親許を離れて女衒の獣車へ抛り込まれた哀れな女の白く艶やかな項が、フェロシュの視界に残像を描く。だが、過去の自分の境遇と重ね合わせて大仰な感傷に浸っている場合ではない。鋭利な眼差しを室内へ滑らせると、標的は直ぐに見つかった。壁際の籐椅子に悠然と踏ん反り返り、灰白色の鞘に納めた湾刀を胸に懐いて、その男は凝と此方を見ていた。機嫌の悪い野牛を想わせる筋肉質の巨体に、群青の衛士袍(えじほう)を纏っている。その姿を捉えた瞬間、フェロシュの網膜を血煙に似た憤怒が一面に覆い、逆巻く血流が耳鳴りのように鼓膜の奥で甲高い音を響かせた。

「あんたが、ムジークね」

「皮剥ぎの一党か」

 帯刀した不意の訪客に動顛した様子も見せず、ムジークは落ち着き払って確かめるように言った。

「その女を取り戻しに来たか」

「それだけじゃないわ」

 泰然自若たる標的の態度は、フェロシュの神経を引っ掻いて不快な感情を煽り立てた。僻村に暮らす世間知らずの娘を買い取り、アラルファンの穢れた暗闇へ連れ込んだヴィオルの家頭と、その女を腕尽くで攫って私的な慰み物に用いようと企てる高慢で邪悪な呪刀士。何れにしても、反吐が出そうなほど不愉快極まりない眺望だ。

「あんたの素性を確かめに来たのよ」

「素性? 流れ者の脛の傷を探ったところで、お前に何の儲けがあるって言うんだ」

「この街の秩序を踏み躙る為に雇われた野良犬。嬲り殺したって何の儲けにもならないけど、少なくとも損切りくらいの意味はあるわ」

「言ってくれるじゃねえか」

 籐椅子から徐に立ち上がり、抱えていた呪刀の鞘を逞しい指先で掴みながら、ムジークは炯々たる眼光をフェロシュの双眸へ叩きつけた。

「何の証拠があって、言いがかりをつけやがる」

「証拠? あたしは未だ、何も言い当ててはいないでしょ」

「下らねえ猿芝居は止しておけよ。御互い、あんまり悠長な議論を戦わしてる場合じゃねえだろ」

「時間は幾らでもあるわ」

 凡庸な流氓を演じるのは先方の勝手だが、この期に及んで謀略の真相を暴き損ねるのはフェロシュの矜持が許さなかった。

「ガルノシュ・グリイスと、何の因果があるの」

 正面から踏み込んだ問い掛けに、ムジークは唇を歪めて嘲笑を滲ませた。

「単なる雇い主だ。それ以上でも以下でもねえ」

「何故、彼奴を雇い主に選んだのかと訊いてるのよ」

「随分と報酬を弾んでくれた。法外な金額だ。それだけじゃ不満か?」

「ええ、不満だわ。この大騒ぎが、あんたの乾上がった財布の中身を潤す為に惹き起こされたなんて、馬鹿馬鹿しくて遣ってられないわ」

「威勢のいい女だな」

 ムジークは指先の感覚を研ぎ澄まして抜刀の瞬間に備えながら、人並み以上に喧嘩の場数を踏んできたことが如実に感じ取れるほど豪胆な紅髪の女の容貌に眼を凝らした。

「偉大なる御主人様は、この街の破落戸どもを一掃することに強い執着を懐いておられる。闇守の末裔を駆逐するのは、累代の皇帝陛下の念願なんだろ? 漸く機が熟したというだけの話だ。俺は運命の巡り合わせに便乗しているのさ」

「アラルファンのことを何も知らないくせに、泡銭目当てで乱暴狼藉を働いているって訳?」

 冷え切った怒りが、胃袋の奥底から食道を駆け上がり、喉笛まで迫り上がる。色々な思惑が絡み合い、夫々の利害が交錯することで、今日の不愉快な構図が出来上がったことは理窟では明晰に理解している積りだ。然し、論理の筋道が通っていたとしても、生来の感情がその不本意な理路に義理を立てる必要はない。ムジークにはムジークの言い分があり、ガルノシュにはガルノシュの正義がある。だが、それが世間の常識だとしても、この煮え滾る憤怒を鎮静化するには余りに脆弱な哲理ではないか。

「悪いが、面倒な議論は趣味じゃねえんだ」

 陰気な艶を燈光に浮かび上がらせて、灰白色の鞘が静かに揺れた。忽ち裂帛の気合いが狭苦しい室内に充満し、総身を粟立たせる。僅かに腰を沈め、左足の踵を後ろへ引いて身構えるムジークの眼光は、虚無的な暗闇を湛えた洞穴を想わせた。

「政治なんてものは、市井の民草が彼是と論じたって始まらねえのさ。お前がどういう素性の女か知らねえが、宮廷の人間が考えることに楯突いたって寿命を縮めるだけだぜ」

「そういう暢気な理窟を並べて平気な顔をしていられるのは、あんたが泥水を啜ったことのない幸せ者だからよ」

 ムジークの好戦的な態度など歯牙にも掛けず、フェロシュは全身の血管を流れる憎悪と敵意の感触を静かに確かめた。こうして激情に総てを委ね、血腥い成り行きに身を任せるのが賢明な選択でないことは、余人に釘を刺されずとも百も承知だ。怒りのままに敵対する相手を破壊することが、真の利益に資することはない。だが、それでも高ぶる感情を抑えつける為には、理窟が足りなかった。この男は巨額の金銭と引き換えに他人の胸倉を掴み、脅し、巧妙に誑かし、そして何もかも根こそぎ葬り去ろうと企てている。この男を赦し、生き長らえさせることに、如何なる倫理的な価値も認めようとは思わない。

「正直に答えて。ガルノシュはあんたに、この街の秩序を破壊させようとしているのね」

 辛うじて暴発を堪えながら、フェロシュは低い声でゆっくりと問い掛けた。自分の憤激が正当なものであることを立証する根拠が、たとえ断片的であっても構わないから欲しかった。この男を殺すことに、客観的な正義を与えたい。無論、それが欺瞞に過ぎないことは弁えている。どんな正義も、ただ正義を自称しているというだけで既に、どす黒い罪悪に穢れているのだ。知らぬ間に誰かの靴を踏み躙り、その魂に鋭利な創傷を走らせ、大切な持ち物を奪い取ってしまうのが、普遍的な正義と呼ばれる深刻な病の特徴であろう。それを十全に心得ていても猶、湧き上がる殺意は扼しようがなかった。

「事実ってのは、単純明快なもんだ。身も蓋もねえ。それでも知りたいなら、教えてやろう。確かに俺はガルノシュ・グリイスの手先だ。忠誠を誓った覚えはねえが、彼奴の悪企みを殊更に阻もうとも思わねえ。だから、この街へ潜り込んだ。人を騙したり殺したりすることで金が貰えるのなら、俺にとっちゃ都合のいい勤め口さ」

「良心の呵責は、期待出来ないのね」

「生憎、良心なんてものに関心はねえな」

 冷然と吐き捨てるムジークの不遜な態度を目の当たりにして、フェロシュの胸底に漂っていた憎悪が俄かに一点へ凝集し、禍々しい殺意の結晶を形作った。最早、情状酌量の余地はない。只管に殺すのみ、辿り着いた答えはそれだけだ。

「議論は物別れということね」

「フェロシュ。待て」

 背後から進み出たラシルドのがっしりとした右手が、フェロシュの肩口を確りと捉まえた。邪険に振り払おうとするフェロシュの瞋恚に濡れた瞳を鋭く見据えて、抑制された声音で囁きかける。

「その男を始末するだけでは、埒が明かない。いいか、此れはガルノシュの陰謀を把握する為の絶好の機会だ」

「グラムホールが生かして連れ帰れと言ったから、その通りに従うべきだと?」

「そうじゃない。この男が総てを白状する前に殺してしまうのは、千載一遇の好機を逃がすことになると言ってるんだ」

「誰も殺すとは言ってないわ」

「お前のその瞳の色を目の当たりにして猶、その言葉を信じることは出来ないな」

「放して下さい。あたしの邪魔は誰にもさせないわ」

「フェロシュ。昔の上官の命令ならば、幾ら踏み躙っても構わないと開き直る積りか」

「此れは私の個人的な戦いです」

「巻き込まれた側の言い分にも耳を貸せ」

 入り組んだ議論に費やす時間など皆無であることは明白であったが、持ち前の冷酷な沈着さを失ったフェロシュの暴走を阻む為には、あらゆる手立てを尽くす必要があった。

「ムジークを殺すだけでは、ガルノシュの描いた図面を焼き亡ぼすことは出来ないんだ。分かっているだろう」

「こいつを斃せば、闇守同士の馬鹿げた諍いは終わります」

 今更、どんな正論を吹っ掛けられたところで、動き始めた時間の流れを妨げることなど無理な相談であった。頭の中で次々と入れ違いに濫れ返る過去の想念が、精神の穏やかな均衡を決して許さない。この男は、アラルファンの秩序を粉微塵に打ち砕こうとしている。たとえそれが穢れた秩序であったとしても、何も知らない余所者に土足で踏み躙られる筋合いはない。二十年も郷里の街を見捨てたまま、別の世界で別の半生を歩んできた自分が、この期に及んで五体を駆け巡る闇守の血を燃え上がらせるなど、感傷的な欺瞞に過ぎないと、コートフェイドなら嘲笑うだろうか。だが、そのような嘲笑を懼れて足踏みする方が却って、己の魂を、己の矜りを毀損することは確実であった。

「気に入らねえな」

 二人の遣り取りを冷ややかに眺めていたムジークの眉間に、深淵のような皺が刻まれた。

「まるで俺が負けるに決まっているとでも言いたげな口振りじゃねえか。お前らが死ねば、そんな議論は単なる時間の空費だろう。長々と囀ってる暇があるなら、腰の呪刀をさっさと抜いてみせろ」

「望むところだわ」

 ムジークの挑発に衝き動かされるようにフェロシュは答えて、ラシルドの叱責も意に介さぬまま、細身の呪刀をすらりと抜き放った。