読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 5

創作「刃皇紀」

 狭苦しい居室に、無数の見えない斬撃が走っていた。互いに呪刀を抜き放って構えたまま、一歩も動かずに間合いを測り合う二人の視界には、凡そ考え得る限りの刀剣の軌跡が映じている。荒事に慣れた闇守の兵卒たちが悉く捻じ伏せられたという前評判を信じる限り、迂闊な暴発は直ちに命取りとなりかねない。そもそも、そのような予備知識に頼らずとも、対峙する相手の構えや気魄を徴するだけで充分に、ムジークという不逞の輩が相当な技倆の持ち主であることは判然と看取し得た。無造作に得物を握って、鋒鋩をだらしなく足許の絨毯へ垂れているように見えるが、強烈な気魄が誘うように開かれた胴体の全面に行き渡り、斬撃の侵入を完璧に峻拒している。細身の呪刀を右下がりに横たえて腰を落としながら、フェロシュは猛禽の瞳で相手の構えに微かな綻びを見出そうと努めたが、数分が経過した後も突貫の糸口を掴むことは出来なかった。

「どうした。さっさと済ませようじゃねえか」

 脂ぎった野牛の体躯を僅かに左右へ揺さ振って、ムジークが昂然と面を上げた。

「警事局の連中が押し寄せてくる前に、さっさと俺の首を刎ねちまいたいんじゃねえのか」

「煩いわね」

 唯でさえ鋭利な双眸を痩せた三日月のように引き絞って、フェロシュは忌々しげに唸り声を上げた。

「その穢れた唇を塞いでやるわ」

 語尾が掻き消えるかどうかの微妙な瀬戸際を狙って、フェロシュの軍靴が力強く床板を蹴った。霍閃の如く振り抜かれた斬撃がムジークの白刃と交錯し、鼓膜を鷲掴みにするような甲高い金属音を周囲へ撒き散らす。

「遅いな」

 振り上げた湾刀を鞭のように撓らせて角度を変えながら、ムジークが黄ばんだ歯列を獣のように剥き出して北叟笑(ほくそえ)んだ。その邪悪な顔つきに猶更戦意を高ぶらせて、細身の呪刀を乾竹割りに振り下ろす。剣尖が僅かに相手の上衣へ触れたものの、繊維を数本斬り裂くだけに留まり、二人は飛び退って再び間合いを仕切り直した。須臾の格闘であったにも拘らず、フェロシュの額には薄らと汗が滲み、劇しい緊張に総身の筋肉が石膏の如く強張りかける。

「だが、手練には違いねえな。お前、何者だ」

「あんたに関係ないでしょ」

「他人の素性は詮索したがるくせに、自分は名乗りも上げねえ魂胆か。厚かましいな」

 指先を開閉して湾刀の握り具合を確かめながら、ムジークは突慳貪な口調で吐き捨てた。その落ち着いた表情には、精神的な余裕が窺える。目紛しい攻防の手応えを反芻しながら、フェロシュは密かに舌打ちした。最初の抜き打ちで仕留められずとも、体勢くらいは崩せるだろうと踏んでいたのに、ムジークの構えは微塵も乱れなかった。悔しいが、卓越した技量の持ち主であることは否が応でも認めざるを得ない。

「アラルファンを滅茶苦茶にして、あんたに一体何の利益があるの」

「また話を蒸し返す積りか。俺は下らない議論は嫌いだと言った筈だろう」

「それでも、あたしは納得が行かないわ。曲がりなりにも、此処は故郷なの」

「ペンブロードの生まれか」

「違う。ソルトビル家の跡取りよ」

 跡取りという言葉を用いた直後に、自分の感情が度し難い混乱の深みへ埋没している事実にフェロシュは改めて気付いた。抗争の渦中に惨殺された父親の記憶は片時も脳裡を去ったことはないが、正面から向き合うことは意識的に避けてきた。真面目に考え込んでしまえば、どうにもならない陰鬱な情念に心身の総てを呑み込まれてしまう予感がしたからだ。そうした逃避は必然的に、自分が闇守の家頭の娘として生を享けたという紛れもない真実に対する黙殺を強いた。妾として売り飛ばされた軍務官の邸宅に火を放ち、嗜虐的な性癖を有する主人を殺害したのも、そこから遽しく出奔して西部の辺境へ落ち延びたのも偏に、忌々しい過去の清算を図る為だ。そうやって古びた記憶の泥濘から遁走を重ねた結果、彼女の魂は新鮮な回生を遂げた筈であった。殉国隊の英雄という特に望みもしなかった栄光に包まれ、新時代の覇者へと立身出世を遂げた閣派政権の親玉たちにも一目置かれる存在となった彼女は、黴の生えた因縁から完全に解き放たれた筈であった。然し、結局は何もかも昔のままだ。久方振りに踏み締めたアラルファンの大地には、血腥い暴力の痕跡が澱のように蟠っている。総てを擲ち、あらゆる因果を断ち切って新たな人生を手に入れた積りでいたのに、意識の奥底へ封じられた魂は何一つ忘れていなかったのかも知れない。どれだけ抗弁を積み重ねたところで、自分が殺されたソルトビル家の領袖ダイアイスの継嗣である事実は取り消し得ない絶対性を備えている。この重厚な鎖が踝に擦れて発する痛みは、決して振り払うことの出来ない陰惨な宿痾のようなものだ。

「ソルトビル家は大昔に滅び去ったと聞いたが、生き残りがこんなところで燻っているとは畏れ入る。血統というものは恐ろしいな」

 好奇心を唆られた様子で眼を細めながら、ムジークは静かに言い捨てた。

「生憎、お前の思い入れには付き合えねえ。正義というのは、重なり合わないもんだ。俺が金銭と暴力という二つの魅惑に引き込まれ、この地へ繋縛されていることと、お前の郷里に対する執着との間に、具体的な意味を見出すことなど出来ん」

 矢張り無駄なのか、という忸怩たる想いがフェロシュの胸底を領した。細身の呪刀を力強く握り締めて呼吸を整え、体内を駆け巡る念気に意識の尖端を寄り添わせる。同時に指先の鋭敏な感覚が、鍛え抜かれた刀身に漲る呪気の蠢動を捉え、その精妙な息遣いに触れる。この二十年間、呪刀に秘められた本来の爆発的な力を解き放つことは稀であった。それだけ世間が平穏無事の境涯を謳歌していたということだが、最早その幸福は潰えてしまった。あの頃のように、誰もが二つの派閥に分かれて互いの存在を憎み合っていた不幸な時代のように、掌中に固く握り締められた永年の伴侶とでも称すべき愛刀は、紫の焔を羽衣の如く纏って踊り続けねばならないに違いない。

 アラルファン北方のギラム高地で採掘される呪鉱石を原料に、古典的な職人たちの手で丹念に鍛造される伝統的な呪刀アラール・エルザルを、フェロシュは十歳を迎えた祝いに実父から贈られた。アラール古語で「闇夜の蝶」を意味する「メシナ・ブディーア」という銘の打たれた細身の呪刀は、他の追随を許さぬ俊敏な体捌きで呪匠のルヘランを驚嘆させていた彼女の持ち味に相応しく刀身が身軽で、機動性に優れていた。ペンブロード家の虜囚となり、高慢な軍務官の邸宅へ売り払われた後、主人の寝首を掻いて奴隷の境遇を脱した彼女は、西方の辺境へ向かって落ち延びる途次、辛くも余命を保っていた影蜘蛛の一人と帝都の入り組んだ路地裏で邂逅した。ユジェットという名の年老いた影蜘蛛は、連れ去られた御寮様の身の上を案じて密かに隧道を脱け出し、不案内な道程を踏破して帝都まで辿り着いていたのだ。彼は持参したメシナ・ブディーアを鄭重に差し出すと、共にスヴァリカンへ赴こうと勧めるフェロシュの言葉に首を振り、悲哀と憂愁に満ちた瞳で答えた。

「御寮様、私は生まれも育ちもアラルファンの窖の奥底、地上の世界のことは何一つ弁えぬ盲いた土竜に御座います。異郷へ逃れて新たな生活を営むには最早、齢を重ね過ぎました。影蜘蛛の務めとして、亡君の御霊を慰めることに、残された命の総てを捧げたく存じます」

 自分も生まれながらに備わった血の宿命に従って、滅ぼされた一族郎党の無念を晴らす為にアラルファンへ帰還すべきであろうか、という切迫した問い掛けが、数え切れぬほど多くの皺と創傷を帯びたユジェットの真摯な面差しを見凝めるうちに、フェロシュの胸底へ雲霞の如く湧き立った。飽く迄も亡君への忠誠を貫徹したまま、苦渋に満ちた末路を迎えようと志す年老いた影蜘蛛の壮烈な決意は、辺境への遁走と新たなる出立を企てる彼女の後ろ髪を劇しく引き寄せた。だが、限られた時間の中で入念に積み重ねた逡巡の涯に、フェロシュは影蜘蛛との永訣を選び取った。薄汚れた暗渠のような隧道へ舞い戻り、破壊された秩序と踏み躙られた家名の再興に意を尽くす為には、彼女の絶望は余りに深過ぎた。闇守の矜りなど詭弁だ。拉致した女を金銭と政略の為に妾として売り払うことも辞さないヴィオルの悪弊は、アラルファンの風土に根差した歴史的な慣習であった。それが自分の故郷であるという事実への堪え難い嫌悪が、ユジェットに対する哀惜の感情を超越してしまったのだ。

「あたしは、自分だけの道を往くわ。悪いけど、アラルファンには戻らない」

 冷淡な宣告として響いたであろうフェロシュの言葉に顔色一つ変えず、ユジェットは曲がった背骨を殊更に撓めて、鼠の駆け回る薄暗い帝都の路傍へ平伏してみせた。

「御意に御座います。我ら影蜘蛛は皆、御寮様の御無事をアラルファンの窖より御祈り申し上げております」

 項垂れたユジェットの頭部へ巻き付けられた藍染のジャーラを見凝めたまま、フェロシュは束の間の絶句に沈み込んだ。アラルファンへ帰還するという選択肢は既に、彼女の脳裡からは消失していた。だが、肺腑を貫く慟哭にも似た感情の奔騰を、完全に黙殺することは不可能に等しかった。

「許してね、ユジェット」

 絞り出すように発した言葉に、ユジェットは鞭打たれたような勢いで面を跳ね上げ、弛んだ瞼に埋もれた双眸を心持ち大きく見開いた。

「御寮様。我ら影蜘蛛は如何なるときも、ソルトビル家の忠実な家来に御座います。我らが胸中を忖度するなど、無用に御座います。どうか御自愛下さいませ。たとえアラルファンの土を二度と踏むことがなくとも、御寮様は我ら影蜘蛛にとって」

 不意に途切れた声音を追い掛けるように、低く抑えつけられた嗚咽がフェロシュの耳朶へ触れた。火を放った邸宅の方角を見遣ると、暗天を蝕むように不吉な紅蓮の光が高々と噴き上がっていた。官憲に見咎められる前に、帝都を去らねばならない。黙り込んだユジェットの肩へ指先で触れ、早く闇へ紛れるように命じると、受け取った愛刀を腰帯へ手挟みながら、焼け落ちる家屋の放つ生温い夜風から遠ざかるように、フェロシュは寝静まった街衢の狭間へ栗鼠の如く走り込んだ。