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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

要するに「被投性」

思索

 私は難しい哲学的語彙など分からない。だが、ドイツの哲学者ハイデガーが「被投性」という特殊な造語を用いたという歴史的な事実については聞き齧った覚えがある。無論、その精確な定義を理解した上で今、この言葉をパソコンの電子的な画面上に出現させた訳ではない。それでも、別に構わないと思う。私は哲学者ではなく、単なる市井の民草に過ぎないからだ。

 被投性という言葉は、人間が否応なしに、予め作り上げられた世界の秩序の渦中へ投げ込まれるような仕方で生まれつき、そして生涯を歩んでいかなければならないという宿命を背負っていることの端的な、凝縮された表現である。実際、私たちは生まれ落ちる時代も、社会的な環境も、自分自身の遺伝子配列も、何一つ選べないまま、母親の胎内から数多の幸運を経由して、この世界へ顔を出し、甲高い産声を上げる。そのことに例外はない。私たちの人生は決して、イギリス経験論の系譜に連なる人々が唱えるような「タブラ・ラサ」ではなく、既に多くの書き込みが施された、薄汚れた使い古しの羊皮紙のように生を享けるように定められている。そのことは、呪っても恨んでも書き替えることの出来ない本源的な宿命である。

 後天的な努力によって、先天的な問題は総て克服され得ると看做すことは今日、万人の信奉する普遍的な教義とは言い難い。そのような努力万能主義が、その欺瞞性を暴かれずに済んだ時代や、或いは暴かれずに済んでしまう局面が、古今を問わず存在することは事実であろうが、それはタブラ・ラサという理念の普遍的な正当性を証すものではない。私たちは投げ出され、抛り込まれる。夏目漱石の「猫」が、いきなり「獰悪な書生」の手で笹原のなかへ投げ捨てられたように、私たちは母親の産道を命からがら這い出した揚句、理不尽な現実の真っただ中へ叩き出される。私たちは否応なしに「生まれてしまった」存在であり、その根源的な事実には、個人の恣意が容喙する余地はない。

 インターネットの発達によって、私たちはこれまでの人類が想像もしなかったような手軽さで、無数の情報を取り扱う力を獲得した。誰もが一端のフォトグラファーを気取れるようになったのは、デジタルカメラスマートフォンのカメラ機能の慌ただしい普及の成果である。そのような身軽さを、職人気質の写真家は嫌うかもしれない。所詮は、道具に操られているだけ、技術の恩恵に与っているだけだと。或いは、パソコンの普及で「文章を書き、発表すること」のハードルが著しく下がった為に、一端の物書き気取りが雨後の筍の如くウジャウジャと増えていると、本職の書き手は嘲笑うかもしれない。だが、そういうのは言い掛かりだ。技術の恩恵に与り、新しく切り拓かれた領域へ向かって新鮮な気持ちで駆け出すのは、罪悪と呼ぶには余りに清々しく健康的な営為である。原稿用紙に書くしか方法がない時代に生まれたら、断じて文章など草することはなかったであろう人々が、時代に便乗し、胡坐を掻いて物書きを自称し始めることが、欺瞞的な行為だとは、私は考えないし、信じない。私たちは投げ込まれた世界の習慣に即することで、短い命を支える以外に生きる途を知らない。それが被投性ということだ。被投性に栄光あれ。