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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

私が無職だったころ

追憶

 私は二十歳の時に最初の結婚をした。所謂「授かり婚」という奴で、入籍の三箇月後には息子が産まれる予定であった。そのときの配偶者は離婚歴があり、九歳の娘を連れていた。大学を一年で中退し、実家暮らしのフリーターとして怠惰な日々を過ごしていた私は俄かに、二児の父親という重責を担うことになったのである。

 その年の七月に相手の妊娠が判明し、両家の親から堕胎するように厳しく命じられながらも、私たちは出産と結婚へ舵を切り、慌ただしい職探しが始まった。大学中退の私は松戸のハローワークへ通い詰め、寿司屋の正社員の勤め口を見つけた。だが、折角拾ってもらった恩も忘れて、たった二週間で仕事を辞めた私は、再びハローワーク通いを始め、程なく業務用複合機の販社に営業マンとして勤めることになった。だが、来る日も来る日も分厚い電話帳を捲って見知らぬ会社へアポイントメントを取り付ける苛酷な生活に、私の未熟な心は忽ち崩壊し、三箇月ほどで退職した。奇しくもそれは、妻の誕生日であった。身重の妻の誕生日に仕事を辞めて帰ってくる旦那など、殆ど産業廃棄物にも等しい存在であろう。当時の私は紛れもない、穀潰しであった。

 そこから今の会社に雇ってもらうまでの半月ほどの期間、私は日雇い派遣の仕事を幾度かこなして、生計の足しにした。無職の夫に対する家庭内の風当たりは、シベリア寒気団の如く苛烈なものである。家に居ても息苦しいだけだから、自然と足が外へ向く。私は当時、日雇い派遣の最大手として知られていたグッドウィルに登録し、仕事を貰った。

 夜中であろうと構わずに携帯へ掛かってくるグッドウィルの電話に辟易しながらも、いかんせん穀潰しの身分では優雅なことも言っていられない。片っ端から引き受けて、私は何度もマイクロバスに揺られて見知らぬ道路を運ばれた。大抵は夜勤で、工場や物流センターが多かった。北柏駅のコンビニに集合して、夜の十時から明け方の七時までビール工場で働いたり、西船橋駅のコンビニに集合して、巨大な物流センターで働いたりもした。いずれも、業務の内容は至極単純なものであった。ビール工場では、コンベアに乗って流れてくる金属製のビア樽の口金を点検し、汚れているものを弾くという仕事をやった。事前に、一本も汚れていない場合もありますが、眠らないで下さいねと注意された。真夜中のがらんとした寒々しい工場に座り込み、電気ストーブに当たりながら無数のビア樽を眺め続けるのは、死ぬほど退屈な作業であった。私は暇潰しに、一人カラオケ大会を決め込んで、様々な歌を口ずさんだ。コンベアの騒音で、周りに聞こえる心配がなかったから、気持ちよく声を張り上げて歌った。

 松戸のパン工場では、一階のフロアでパンの仕分け作業に携わった。続々と運び込まれる凄まじい量の番重に乗せられたパンを、伝票に基づいて配送先ごとに分別していくのである。一定のタイミングで、トラックへの積み込み作業が行われ、屈強な男たちが山ほど積み上げた番重のタワーを、開け放たれた荷台へ次々に蹴り込んでいく。把手のない軽量の台車に乗せた番重のタワーを僅かに傾けて、足で蹴飛ばしてタワーを荷台の内部へ滑り込ませるという熟練の技が炸裂するのである。唯でさえ不器用な新入りの私は案の定失敗し、番重のタワーを倒壊させて工場の社員を苛立たせた。

 夕方六時から始まった業務は、休憩を挟んで明け方の五時まで続いた。作業の合間に定期的に十分ほどの小休憩があり、その時間が来ると男たちは事務所に戻って濛々と煙草の煙を燻らせる。窓の向こうの家並は静まり返って、街燈だけが明るい。

 仕事を済ませ、外のロッカーへ着替えに行くと、雪が降り頻っていた。家路を辿る間も、私のダウンジャケットは粉雪に塗れ続けた。私は疲れ果てていた。名前を呼ばれることもない単純作業の現実を思い知り、このままでは駄目だという想いが強く高ぶった。ここは俺のいるべき場所じゃない。その悲愴な決意を、私は無職だった頃の経験から切実に学び取った。