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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説を書くという、不自然な営み

文学

 小説を書くという行為は、極めて不自然な作為の連続であり、そこに作者のナチュラルな声というものの生起を期待することは出来ない。たとえ現実の出来事を素材に用いていたとしても、小説は本質的にフィクションであり、嘘を塗り重ねる営みである。それは自分の考えや追憶を直接的に淡々と書き表すこととは本質的に異なっている。だから、小説を書くことは世間的に信じられているほど、ハードルの低い営為ではないのだ。誰しも日常の折々に、保身や冗談の為に多少の嘘ならば吐いたことがあるに違いない。しかし原稿用紙数十枚から数百枚分の嘘を、しかも文章という形で吐き続ける経験というのは、余り一般的なものではないだろう。それは多少なりとも専門的な訓練を要する技術なのだ。

 勿論、小説における「嘘」というのは別に、事実に反することだけを指すのではない。小説が「嘘」であるということは、その小説が事実に抗するものだという意味ではないのだ。重要なのは、それが真偽の次元を超越した、もっと根本的なレヴェルにおいて「嘘」であるということであり、事実との食い違いが小説的な意味での「嘘」を成立させる訳ではない。たとえ事実の通りに何かを書き綴ったとしても、それが小説である限り、原理的にそれは「嘘」の一部である。この根本的な虚構化の装置が、小説の小説たる所以を構成する重要な特質であり、機能なのだ。

 小説を書きながら、私たちは書かれる対象を、その対象が所属している日常的且つ本来的な領野から切り離し、引き剥がす。ロシア・フォルマリズムの用語を借りるなら、それは「異化」ということになるだろう。私たちが日常的に受け取っている世界の論理を、そのままの状態で引き写すだけならば、書くことは単に、実在する世界の粗雑な投影に過ぎない。だが、書くことを通じて、単なる模写ではない世界の構築を目指すのならば、そのとき初めて小説は小説としての価値を得る。当たり前のことを当たり前の論理に基づいて羅列しても、仕上がった作品は小説としての特異な性格を獲得することが出来ない。だから、小説は理論上、滑らかに書くことが出来ないものだ。それは常に滑かに書かれ得る一般化された現実を捻じ曲げる為に、文章そのものを捻じ曲げる必要性を負う。そうでなければ、芸術という非日常的営為に何の意義が備わるだろうか? 小説を書くのは、在り来たりのパターンに便乗することではないし、使い古された物語の作法を遵守することでもない。どこまで有り触れた現実の面の皮を捲ってやれるか、その積極的な「発見」の姿勢だけが、小説に固有の新鮮な省察を産み落とすのである。