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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

推敲は、やればやるほど「普通」になっていく

思索

 推敲は、一旦仕上がった文章に後から手を加えていく作業である訳だが、それが果たして芸術的な価値を高めるものであるかどうかは、一概には断定し難い問題である。例えば村上春樹は、自作を繰り返し丹念に推敲し、書き直すことの歓びを様々な場面で力説している。だが、本職の作家であっても、中上健次小島信夫のように書いたものを読み返さず、書き終えたらそのまま完成と看做してしまうタイプの人間も実際に存在する。どちらが正しいかということを、この場で議論したい訳ではない。重要なのは、自分にとってどうか、という点だ。

 私は「昊の棺」(そらのひつぎ)という小説を書くとき、入念な推敲を試みたのだが、それによって大幅に夾雑物が削ぎ落とされ、文章の贅肉が除去されたことは事実である。無論、このブログでも記事としてアップしている「昊の棺」を御覧になれば、推敲した結果がこの程度のレヴェルなのか、少しも洗練された文章じゃないよ、という風に感じる方も数多いだろうが、私は本職の作家ではないので、その点に関しては御容赦願いたい。

 私自身の感覚としては、推敲を重ねたことで確かに文章の完成度、読み易さは向上した。しかし、その代わりに初稿が備えていた猥雑で曖昧な要素が消え去った為に、随分と平凡な印象になった、という風に今では総括している。夾雑物が消え去らなければ、もっと凡庸な作品になった筈だと言われるかも知れないが、端的に言って、あの小説の価値の低さは、洗練が足りない為ではなく、独特の表現的価値が欠けている為に齎されている。オリジナリティ、独創性、異化効果など、言い方は何でも構わないが、初稿の混乱した構図と文章の中に埋もれていた、僅かばかりの個性の未熟な萌芽が、推敲によって刈り取られ、死滅してしまったような気がするのだ。

 それは私の推敲の仕方に瑕疵があった為だろうか。無論、そのような捉え方を試みるのは不可能ではない。しかし、芸術的な価値というものは本来、技術的な巧拙よりも遥かに「独自の感興」の方を重視して語られるべきではないだろうか。無傷であることより、傷だらけでも独自の境涯へ達している方が、芸術としての位は高い筈である。推敲を通じて、既に綴られた文章の不透明な要素や未整理の部分を何度も改訂し、洗練させていくうちに、「昊の棺」は極めて凡庸な一般性の糖衣に包まれることとなった。随分と読み易くなった代わりに、貧相な骨組みだけが見え透いてしまい、特筆すべき細部が何一つ見当たらないという、無味乾燥な仕上がりになってしまった。それは内容の貧弱さに由来する問題でもあろうが、それ以上に私の方法論が根本的な過ちを犯していたことの表れではないかと考えている。小説は単なる文章ではないし、事実に即した報告書でもない。小説の言葉は、現実の捉え方に或る奇抜な「歪み」を生じさせなければならない。推敲によって最大公約数の分かり易さに達したところで、それは芸術的価値そのものとは根本的に無関係なのである。

saladboze.hatenablog.com