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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

成長の拒否ではなく、無効化 ゆうきまさみ「究極超人あ~る」

マンガ・アニメーション

 ゆうきまさみの傑作「究極超人あ~る」は、学園を舞台に据えたコメディであり、その意味では有り触れた類型の一部として回収されてしまうかもしれない。実際、この作品に詰め込まれている種々のマニアックな細部やユーモアは、爆笑に次ぐ爆笑を呼び覚ます為の強烈なギャグセンスに裏打ちされているとは言い難く、微温的である。その微温的な品の良さが私の好みに合うのだが、重要なのは、そういう嗜好性を巡る諸問題ではない。

 「あ~る」が何故、春風高校という「学園」を舞台に繰り広げられるのか、その点に関して仮説を組み立てるのは余り困難な作業ではない。卒業後も毎日のように部室へ入り浸り続ける光画部OBたちの姿を見れば明らかなように、この作品においては学校の本来的機能の一つである「成長」のイデオロギーが機能的な不全状態に陥っている。物語の構造上、歴代の光画部員たちの卒業は、エピソード作りに際して恰好の素材として活用されているものの、本来ならば「卒業」というモーメントに附随する筈の悲劇的な性格、即ち「訣別」という要素が然り気無く除去されていることに、読者は注意を払うべきである。卒業後も部室に何食わぬ顔で入り浸り、社会人として働く姿を殆ど想像させず、世間の荒波に揉まれるが故の人格的な変容(往々にして「成長」のプロセスとして捉えられる類の変容)を示す訳でもない光画部OBたちの描写は、卒業という出来事の劇的な性質を見事に剥奪し、瓦解させているのである。

 この作品が全篇を通じて「成長」というドラマツルギーへの抵抗を含んでいること、しかもそれが意図的且つ自覚的に行われていること(「私の眼の黒いうちはストーリー漫画などやらせん」という成原博士の科白があったように記憶しているが、間違いだったら御詫びして訂正する)、それらが結果的に「物語としての解体」を、つまり「起源」と「終焉」のバッテリーによって構成されるストーリーの成立を阻害しているということ、そして何よりも忘れてはならないのが、そのようなストーリーの成立の妨害という目論見が「コメディ」という形式を媒介として実行されているということ、これらの諸要素を鑑みるとき、私は「物語」と「挿話」との根源的な異質性に就いて考えずにはいられない。或いは「物語」と「小説」という風に言い換えても構わない。

 騎士道物語のパロディとしての性格を有するセルバンテスの「ドン・キホーテ」や、脱線に次ぐ脱線で、線形的な物語の生成を絶えず阻害し続けるスターンの「トリストラム・シャンディ」を参照すれば明白であるように、「小説」というジャンルの独自性は、単線的な秩序に対する抵抗としての意味合いを本来的に有している。本邦においても、例えば近代文学の代表的な立役者である夏目漱石の処女作は、単線的な物語からの徹底的な逸脱によって構成されている。単線的な物語の否定は、別の角度から眺めるならば「結論」の否定であり、「答え」の否定である。そして、そのような物語への抵抗は常に「ユーモア」を最大の武器として実践される。漱石の「吾輩は猫である」が、今でも一向に古びることのないユーモアのセンスを全篇に瀰漫させていることは改めて指摘するまでもない。物語は常に厳粛な表情で読者を出迎える。その厳粛な物語を笑い飛ばすことで脱臼させる「小説」の原理は、精神衛生的な見地からも、政治的な見地からも、共に重要であると看做されるべき力を備えているのである。