サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「芸術」は本質的にビジネスではない

 芸術はビジネスとの間に接点を持ち得るが、本来的にはビジネスとは無関係な領域である。芸術がビジネスとして成立し得るのは、あらゆるものを商業的な領域に引き摺り込もうとする資本主義的ドライブの要請であるに過ぎない。

   だが、現代のようにあらゆる事象がビジネスの候補に挙げられ、二酸化炭素の排出権や清浄な真水など、昔であれば到底取引の対象とはなりえなかった公共財としての自然さえ、その身に値札を背負わざるを得ない時代にあっては、金にならない芸術というのは単なるビジネスの失敗と目されるのが通例と化している。こうした資本主義的原理の徹底した亢進が社会を包摂している状況下においては、芸術的な価値と経済的な価値の混同を回避する為には、相応の意志と企図が不可欠である。優れた芸術的価値と、望ましい経済的価値との間に必然的な相関性を見出そうとする姿勢は、マーケットの反応が冷酷な神のごとき絶対的規範として重んじられ、崇められる資本主義的信仰の所産である。

    だが、芸術というものには、単なる娯楽以上の意義が備わっている。そうでなければ、芸術を単なる娯楽と看做すビジネスライクな考え方への異論が根深く行われる筈がない。小説でも映画でも音楽でも、人々へ提供される罪のない娯楽としての側面を有するコンテンツが幅を利かせる一方で、寧ろ罪深さこそ至上の価値であるような芸術的コンテンツの蓄積が歴史的に継承されている。

   勿論、芸術という営為の社会的な位置付けは、時代や環境の変化によって種々の制約を受けるものである。絵画が王侯貴族の庇護下に置かれていた時代と、現代の画家たちが置かれている境遇との間には著しい違いがある。無論、いずれの場合でも、芸術が誰かの精神に訴えかけることで、その社会的な価値を担保していた事実に変わりはない。だが、誰か特定の裕福な理解者さえ得られれば、芸術家の世過ぎが成り立っていた時代と、マーケットという抽象的な顧客の評価を確保しなければならない現代とでは、芸術家の方法論には決定的な違いが生じるであろう。収益の確保と芸術的成功とを結びつける奇怪な算術への信頼は、明らかに現代的な症候であり、時代の制約に基づいた固定観念である。売上と顧客の評価を同一視する資本主義的発想の下に、芸術という奇特な営みを監禁してはならない。それは芸術の画一化と貧困を確実に招来するだろう。本来ならば芸術は、社会的な流通を拒む性格を備えているのであり、それが金儲けの手段として広く認識されるのは、異常な奇蹟なのである。