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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ゆるキャラ」と八百万の神々

 現代の日本には夥しい数の「ゆるキャラ」が存在しており、日々増殖の一途を辿り続けている。私がその片隅に三年ほど暮らしていた船橋市には「ふなっしー」という屈指の有名ゆるキャラが棲息していて、世間には熱狂的な愛好家も少なからず存在しているらしい。

 これだけ大量に次から次へと「ゆるキャラ」なる人工的な被造物、或いは偶像が生み出される背景には、日本古来の汎神論的な風土が影響しているのではないか、という暴論を思いついたので、こうして備忘録程度に記事を綴っているのである。私は宗教学者ではないので、生憎「ゆるキャラ」と「八百万の神々」の関係性を学術的に跡付ける能力など持ち合わせていない。だが、ゆるキャラが一種の「信仰」の対象に等しい扱いを受けていることは、経験的な事実であると言えるのではないだろうか。

    ゆるキャラに限らず、古くは「たまごっち」から「ポケモン」に至るまで、私たちの国では多様な偶像に親しむことが日常的な習いとなっている。それは宗教の世界に関しても言えることで、多種多様な仏像が全国各地の寺院に納められていることを思えば、私たちの偶像崇拝に対する情熱が歴史的な慣習であることは火を見るよりも明らかであるように感じられる。

    ヨーロッパ及び中東に淵源を有するユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教では、神は常に絶対的な単数として定義され、しかも特定の場所に結びつくことがないし、偶像として具象化されることもない。日本古来の神々が常に特定の場所に祀られることとは、対照的な信仰の形態であると言えるだろう。日本に限らず、例えばギリシャやローマの神話に登場する神々、つまり神々の複数性が認められている世界では、神々には実体的な造形と、特定の住居が与えられる。しかし、一神教の価値観においては、神に具体的な形や住まいを与えることは、神の絶対性に対する許し難い冒涜と看做される。何故なら、具体的な形や住まいを与えることは、神を有限性と相対性の領域へ引きずり下ろすことと同義であるからだ。一神教の特徴は、神の絶対的な普遍性を重視する点に存しており、従ってそれは姿も形も持たず、超越的な「声」としてのみ現れるか、どうしても必要な場合には「天使」や「預言者」という名代を地上へ遣わすことになる。

   こうした一神教的な普遍性は、多神教的な風土に対する厳しい抑圧として作用する反面、特定の風土に縛られる多神教的原理と異なり、ローカルな共同体的価値観を超越することが出来るという汎用性を備えている。だからこそ、人種や土地の固有性に制約されることなく、広範な領域に亘って影響力を及ぼすことが可能になるのだ。しかし、例えば遠藤周作の「沈黙」においては、南蛮渡来の一神教的原理が、土俗的な多神教の原理に突き当たって敗北し、無惨に呑み込まれていく光景が語られている。絶対的な存在としての神が、大日如来との習合を強いられ、具体的な姿形を与えられることで本来の力と意義を失っていく過程は、日本的な風土の特質が強靭なローカリズムに存することを私たちに痛感させる。こうした根深い偏狭さは、時代の変遷をも乗り越えて底流し続ける、私たち日本人の度し難い本質であり、宿痾なのである。