読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「記述する運動」そのものとしてのカフカ

文学

 カフカの文章が備えている徹底的なリアリズムの感触は、それが過不足のない巧みな表現力を発揮しているということの結果ではない。私の考えでは、カフカの文章が写実的であるように見えるのは、彼が対象に関する綿密な認識を蓄積しているからではない。例えば「変身」という小説は、毒虫への前触れのない変身という荒唐無稽な内容を描いており、それは綿密な認識を蓄積することのできない、想像上の存在である。つまり、彼の写実性は、現実の精細な観察や把握に由来しているのではないのだ。

 重要なのは、カフカの書き方が、荒唐無稽な内容を尤もらしく描写するというような方法論に基づいていないことである。寧ろ彼は「描写」など試みていない。カメラが現実の断面を捉えるように、言葉のカメラを入念に作り上げたという訳ではないのだ。そうではなく、彼は首尾一貫して「記述」という運動そのものに意識の総てを傾注し、主観と客体という近代的な二元論を破砕することで、フィクションの世界との完全なる合一を遂げているのである。

 描写という観念、客体として実在する対象を外側から詳細に認識し、可能な限り克明に転写し、再生するという光学的な理念の導入は、写真と映画に象徴される視聴覚的な表現媒体の隆盛と共にあった近代の世界においては、不可避の宿命であったかも知れない。だが、小説は本質的に「言語」の芸術であり、それは感覚的な対象を精細に写し取る光学的なメディアとは異なる出自を有している。小説が外在的な物語を言語的に再生する「感覚的輪廻転生」の媒体であるという誤解は、小説という雑駁な方法論的領域の本質にとっては、困惑するほかない意見であるに違いない。無論、小説に描写という技法を持ち込むことが、小説の本義に反する行為であるなどと、偏狭な権威主義を唱えようという魂胆ではない。光学的な理念としての「描写」を、文学的な技法として翻訳すること自体は、まさしく小説的な野心の表れであると言い得る。しかし、その局所的な実験が華々しい社会的成功を収めたからと言って、描写を小説的技法の核心に据えるのは行き過ぎた話である。描写は小説的野心の望み得る無数の技法の一つに過ぎず、それを総ての技法に優越させるのは近代的な驕慢に他ならない。

 小説は、書くことそのものと結び付いており、それは詩歌をはじめとする口承文芸の伝統に連なる「物語」の系譜とは、厳密な意味では重なり合わない。詩歌が音楽と分かち難く、ゆえに音律に縛られており、物語が常に語り部の口舌によって演じられ、表現されるものであることは、小説という特異な領域の淵源としては認められても、小説そのものではない。重要なことは「小説」という明治以降の訳語に固執することでさえない(明治以降の訳語かどうか、厳密には知らないが)。佐藤亜紀が「小説のストラテジー」で用いた表現を借りるならば、大事なのは「記述」という運動性なのである。或る文章が文字として綴られ、定着されるということ、その物理的な様式の内部に、小説というジャンルの固有性は基礎を有している。

 カフカの文章における写実性は、記述の運動そのものに書き手の意識を集中させることで生成される要素であり、それは決して光学的な理念としての「描写」に忠実に奉仕することによって分泌されるものではない。彼は悪夢のような出来事を只管に言語化することで、つまり記述の運動に徹底的に身を委ねることで、書かれた文章に異様な迫力を与えているのだ。単に夢魔に魘されるような不条理な出来事を書き綴れば、カフカに近づけるというものではない。重要なのは内容でもなく、方法でもなく、運動そのものに身を潜める為の意志と感受性なのである。