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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

日本語の懐ろに抱かれて

 カフカの「変身」を読み終えた後、安部公房の小説でも読もうかと思い立ち、二階の書棚を漁っていたら偶然、トルーマン・カポーティの「遠い声、遠い部屋」(新潮文庫)が眼に留まった。随分と昔に松戸の書店で買ったきり、どうにも巧く馴染めずに放置してあった一冊である。これも何かの縁だろうと思い、早速読み始めることにして、数日が経った。

 私は海外旅行の経験がない、つまり国境を跨ぎ越したことのない保守的な島国の住民なので、こういう言い方は単なる知ったかぶりの誹りを免かれないのだが、カポーティの「遠い声、遠い部屋」という小説の世界は、極めてアメリカ的な風景に占められている。何と言えば適切な表現になるのか分からないが、ティム・バートン的というか、シンディ・ローパー的というか、毒々しい原色と不吉な陰翳が混じり合ったようなアメリカのイメージである。アメリカには陰翳のない原色の風景だけが広がっている、と言えば歪んだ偏見に過ぎないだろう。

 途中まで健気に読み進めて、すっかり気分が乗らなくなったのは、第一に私の怠惰な気質の為であろうが、地元の書店へ立ち寄って、夏目漱石の「草枕」や太宰治の「津軽」の文庫本を買い求めると、俄かにカポーティを読む情熱が失せて、何だか自分の意志や方針の頼りなさに暗然たる想いを禁じ得ない。

 彼是と言い訳をすることが許されるならば、私は異国的なものへの関心が薄弱なのかも知れない。知らない世界へ飽くなき探究心と果敢な冒険心を携えて乗り込もうと試みることがないのだ。私の知っている人には、単身イタリアやロシアやブラジルやスペインや、その他様々な異国へ体一つで旅に出てしまう勇敢な女性がいて、言葉が通じないことも、勝手の分からない異郷の風俗へ飛び込むことも全く苦にならないらしく、治安の悪い地域であってもたった一人で、ガイドもつけずに赴くのだから感嘆してしまう。恐らく、私という人間には、そういう異郷性への憧憬や関心が余りに欠落している。

 英語を解さない私には、カポーティの芸術的な文章を原文のまま味わう能力がない。無論、翻訳を読めばいいのだが、やはり翻訳の日本語には、原理的な乖離のようなものがあって、巧く溶け込むことが出来ない。翻訳という営為の意義を腐しているのではない。翻訳によって異国の文化を導入することが、この国の肥沃な文化的土壌を育む重要な労働であることは、疑いを容れないからだ。カポーティが英文を通じて作り上げた世界を、私は異なる体系の言語に置き換えられた不完全な反映として受け取ることしか出来ない。私自身にアメリカに関する身体的な経験や知識が備わっていれば、その反映の歪みや遺漏を自ら補いつつ読解することも可能なのだろうが、私の肉体は、生理は、アメリカという外在的な現実を理解していない。だから、カポーティの言葉に巧く入り込むことが困難に感じられる。その齟齬を味わう度に興醒めしていくのは、私の保守的な性質が招き寄せる怠惰な禍いであろう。

 だが、太宰治の「津軽」を読んでいて、そのような齟齬に逢着することは殆どない。「津軽」が発表されたのは戦時中のことで、今から七十余年も昔の話だが、刻みつけられた太宰の日本語に面食らったり退屈を感じたりすることは皆無である。知らない単語が紛れていても、註を見れば何となく意味は通じる。何より、日本語で書かれた日本は、私の身体的な感覚との間に密着にも等しい通路を保持しているのだ。だから、太宰は良いなどと言い出せば、私は愚昧なナショナリストを名乗るほかない。しかし、私が誤解を恐れずにこういう雑文を草しているのは、海外文学と日本文学との優劣といった不毛な問題を取り扱う為ではないのだ。人間は、自分の体の中に刻み込まれた言語、母国語との間に重要な繋がりを有している。言い換えれば、私という人間は日本語という言語体系に魂も含めて繋縛されている。そのこと自体は、逃れ難い宿命だ。私はアメリカ深南部の現実を何も知らないし、体感したこともない。無論、カポーティの英文を通じて、その世界へ触れたり、飛躍したりすることが、文学の凄さであり、富であり、可能性なのだという理路に反抗する積りはない。言葉を通じて見知らぬ世界へ招かれるのは、或いは踏み込むのは、確かに文学に許された秘蹟の代表的なものである。だが、私が言いたいのは、そういうことではない。

 日本語で読み書きする人間として、日本語の富に熟達することは最も根本的な責任の対象である。カポーティの英文の和訳を読み、咀嚼することも、日本語の富を増大させる上で、素晴らしく有効な手段であることに異論を唱えようとは思わないが、私自身の内なる声は、カポーティの和訳よりも太宰治の闊達な日本語を欲しているのである。その内なる声は、日本人の規範というような、高尚な教条ではない。村上春樹が日本文学に余り馴染まず、アメリカ文学の偉大な作家たちに本質的なシンパシーを懐いたことが、一つの個人的な「生理」の問題であるように、私がカポーティよりも太宰の文章に心を惹かれるのも、一つの文学的な生理現象なのである。

 

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)