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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「神話の解体」としての小説・不可避なユーモア

 小説の役割は、神話的な超越性とその厳粛な面差しを破壊することに存する。小説が所謂「物語」との間に決定的な断絶を見出すのは、こうした事情に拠っている。「物語」は、神話的な超越性や、その厳粛な外観との間に著しい親和性を有している。

 だが、こういう顰めっ面の息苦しい議論を振り翳すのは、私の趣味ではない。勿論、近代と小説が手を携えてヨーロッパに顕れたというクンデラの持論が、正解ではないと考える訳ではないが、少なくとも彼の感性と理論に、極東の読書家が唯々諾々と従って、操を立てねばならない理由も特に思い浮かばない。小説は、近代と共に確かにヨーロッパで生まれた。そしてクンデラは、小説という散文芸術の様式に特権的な重みを認め、その決定を声高に訴えようとする。それが正しいのか正しくないのか、私は関知しない。だが、文章を書くという営為を、小説という近代的な様式の求める規則に結わえつけ、猿轡を噛ませるような偏狭な方針、厳格な教条主義は、無意味ではないだろうか?

 或る単一の政治的=社会的=神学的なイデオロギーに抗する為に、小説という方法論に特別な政治性を読み込もうとすること自体は、誰にも咎められる筋合のない、個人の真摯な決断であろう。それが苛烈な政治的高圧の最中で生きながらえた人の決断であるならば猶更、その崇高な決意に余人が容喙する謂れもない。しかし、彼の信じる小説の姿は、彼の厳密な検討を経由したものであるにしても、決して普遍的な定義ではないし、そもそも小説が世界的な普遍性を備えた定義によって制約されるべきであるという見解に、誰もが双手を挙げて同意する必要もない。それが世界文学の最先端であり、最前線の戦いなのだ、それに同意しないものは退嬰的な書き手の誹りを免かれないと、誰かが声高に糾弾するのだろうか? だとしても、本来的に書くという営みは孤独という産屋の中で行われるべきで、その世界的な基準というものに色目を使っても始まらない。書くことは徹底して個人的であるべきで、小説というものの破壊的な革命性も、そこから活力を汲み上げてきたのだ。