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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

何故、私が書いた「昊の棺」が小説として失敗しているのかという問題に関する自問自答・自己批判

 二年ほど前に書き上げて文学界新人賞に応募し、一次選考すら通過せずに敢無く落選した私の「昊の棺」という小説について、何故この作品が小説として失敗しているのか考えてみたい。つまり、この記事は純粋に個人的な雑文であり、社会的な価値は一切備わっていない。 

saladboze.hatenablog.com

 「昊の棺」という小説に欠けているもの、それは第一にユーモアである。ユーモアとは、単に読んで抱腹絶倒の笑いを味わえるような要素を指している訳ではない。重要なのは、書き手が書かれる世界との間に、叙事詩的な沈痛さを伴った関係を築かないという点に存している。それが小説というものの文学的価値を高め、担保する上での要諦なのだ。何故なら、小説は基本的に書かれる対象の異質な側面を発見することに、夥しい労力を費やすものであるからだ。そうやって在り来たりの、決まり切った一般論を覆すことで、小説家は事物の硬直した形式を揺さ振り、攻め滅ぼす。だが、私の書いた「昊の棺」には、そうした相対性の萌芽が所々に、落とし物のように転々と佇んでいるだけで、物事の異質な側面を呼び覚ますには力不足である。

 第二に、この小説には予定調和が織り込まれている。つまり、作者としての私は、この作品に「離婚した男が自殺する」という構造を予め附与していたのだが、そこへ辿り着く為に、そこまでのプロセスが単なる到達の為の手段へと堕落してしまったのである。だが、それでは文章そのものに読者を惹きつけ、動揺させる異様な活力が宿ることは有り得ない。予め定められた筋書きに則り、その進行を妨げぬように配慮を絶やさないのは、一見すると作者として当然の心得であり工夫であるように思われるかも知れないが、それは謬見である。予め決められた答えに向かって慎重に進むだけならば、小説という迂遠な冒険の方法を導入する意義はない。

 第三に、この小説は平凡である。内容自体が平凡であるのは、致し方ない。平凡な筋書きを自作に採用するのは、書く側の勝手であり、その裁量自体を第三者に咎められる筋合いはないからだ。しかし、問題はその平凡な内容を、書くことによってどれほど変質させられるか、という文学的な挑戦の成果に関して、充分な吟味を試み得るかどうかである。端的に申し上げて、私の文章は、書かれた内容の平凡さに競り負けるように、平凡な仕上がりである。

 つまり、ユーモア・意外性・異様さ、これらの特質が不充分である為に、私の書いた「昊の棺」という小説は世間の耳目に触れることさえ、稀なのである。