サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

文学的「悪食」の精神

 小説に限らないが、例えば小説に代表されるような芸術的な作物というものに関して勝手な印象を懐くのは個人の自由であろう。或る作品に触れて、どのような感想を持つかは体質によっても趣味によっても異なるのは当然である。だが、たまに出喰わすのが「読み辛くて面白くない」とか「難しくて面白くない」という類の不遜な述懐である。こういうのは、感想でもなんでもない。作品の価値に関わる評言ですらない。

 内容と表現が密接に結びついていることは百も承知の上だ。それでも、読み辛いから、難しくて理解出来ないから「面白くない」と平然と言ってのける行為が、どれほど傲岸不遜の態度であるのか、そういう言葉を用いて恥じない人々はきっと理解していないのだろう。或る物事が理解出来ないときに、その物事の価値に関して精確な判定を下すことは、論理的に考えて不可能である。何故なら、内容が理解出来ていないのだから。あらゆる価値判断の精確さは、対象となる事物への理解の精度によって幾らでも上下するに決まっている。だから、「分からない」という問題と「面白くない」という問題は本来、別々の次元に属していなければおかしいのである。にもかかわらず、両者を短絡させる人々は、筋金入りの消費者であり、顧客至上主義によって肥育された怠惰な豚であると称すべきであろう。

 小説に限らず、あらゆる趣味というのは「知れば知るほど面白くなる」ものであり、知らなければ知らないほど退屈である。そして、それらの趣味が初心者に対して常に開放的で親切な姿勢を示すとは限らない。何故なら、それらは趣味であって、本質的に嗜好品であるからだ。生活必需品でない以上は、役所のサービスのように誰にでも通じる万古不易のガイダンスを心掛ける筋合もないのである。

 しかし、世の中には徹底的な消費者根性の持ち主がいる。彼らの特徴は救い難い受動性であり、その殿様根性である。映画でもドラマでも小説でも音楽でも、自分が退屈だと感じたときに、その退屈だという感想そのものに無反省に固着して疑おうともしないのが、そういう連中の悪しき習性である。彼らは「自分の感性的な物差し」を信じ切っており、同時に他者から奉仕されることにも慣れ切っているので、精進しようという気構えが欠損している。彼らは「自分が理解出来ないもの=無価値」という等式を捧げ持っている。鑑賞者として、言語道断の恥ずべき怠慢であると言うほかない。

 例えば私は、美味しいものを食べるのが好きである。しかし、私は美食家の名に値しない。何故なら、私は美味しいものを食べるのが好きである為に、それが美味しいと確実に分かっているものだけを選択的に食べようとするからだ。そういう保守的な吝嗇さは、探究心の欠如は、美食の精神とは最も対蹠的な在り方だ。本当に食を愉しむ人は、未知の味覚に挑戦することを辞さず、常に果敢に冒険を繰り返す。それによって恐るべき「まずいもの」と遭遇したとしても、彼らの情熱が色褪せることは有り得ない。

 しかし怠惰な人々は、そのような探究心を放擲して、いわば御手軽に、美味いものを手に入れよう、口に咥えようとするのであり、そうした横着さは実際には、食べることへの救い難い侮蔑に基づいているのである。文学に就いても同様で、読み辛い文章は退屈だ、価値が分からないと平気で言ってのける人間に、文学的価値が啓示されることは数千年経っても起こり得ない。もっと言えば、端的に無縁なのである。読めば自動的に面白さが提供されるのが文学だと思い込んでいる素人は、蛇口を捻れば水が出るという日常の裏側に、水道局の人々の苦労が介在していることを想像し得ない人種である。蛇口を捻れば水が出るのは、恐るべき親切心の貴重な成果なのだ。だが、水道水の味に満足し得ない人々は、ミネラルウォーターを買いに出掛けたり、井戸を掘ったり、富士山麓の清流へポリタンクを担いで足を運ぶであろう。そういう苦労を厭わないのが、何かを「愛好する」ということの本義なのだ。分からないもの、理解し難いものは退屈だという言い分には一分の理もない、というのが、自戒も含めた私の見解である。