サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

世界が終わるとしても、私は今日を生きていかねばならないし、会社が潰れても、夜明けはどうしたってやってくる

 何とも不可解な表題の記事になる。大して深い理由はない。最近、漠然と考えていることを例によって書き綴るだけだ。

 二十歳前後の頃、私は働くことが嫌いだった。幾つか会社を辞めて、当時の家族に迷惑を掛けたこともある。十代の半ばくらいから、所謂社会的なものとの折り合いの悪さを意識し続けてきた私にとって、労働は居心地の悪さの極致であった。自分自身の趣味嗜好や考え方、個人的な事情とは全く無関係に存在する巨大な権力の塊、それが会社であり、そこに組み込まれることは劇しい軋轢や内なる葛藤を齎した。私は組織に所属して生きることが不愉快で堪らなかった。けれど、幾度か会社を辞めた後に辛うじて拾ってもらった会社で、生まれたばかりの息子と、当時の妻の連れ子を養う義務を背負いながら、再び身勝手な逃亡へ舵を切る訳にはいかなかった。そのときの私には、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶという苛烈な覚悟が求められていたのだ。

 それから我慢を重ねるうちに、私の魂にも徐々に勤人の性というものが染み渡り始めて、自分自身の欲望と会社の欲望とを混同し得るくらいの社畜としての風格は身に纏えるようになった。特に離婚した直後は自分の人生の個人的な側面に眼を向けることが酷く辛かったので、会社の命じる業務に過剰な思い入れを示すことは最適の暇潰しであり、一種の精神的な治療でさえあった。

 だが、最近になって思うのは、労働というのはそれほど尊いことなのか、という疑念である。無論、極めて一般論的な、道徳的な、素朴な意味合いとして、勤労は正しい。勤労は正義であり、誇らしき美徳でもあろう。だが、他人に雇われて定められた業務をこなすこと、その平坦な繰り返しの中に無理に生き甲斐を見出そうとする窮屈な姿勢は、寧ろ排斥されるべきではないかと、この頃思う。もっと言えば、会社の欲望と自分の欲望を混同するのは気色の悪い趣味なのではないか、という感覚に時折、襲われるのだ。社畜の涯の、ニヒリズムという奴だろうか。だが、定年を迎えれば終わりを迎える勤人の生涯を、他人の欲望の為に磨り減りながら暮らすなんて、馬鹿げた話ではないか。他人の欲望の為に生きるということが、近年の私には酷く退屈で不毛な営為のように感じられる。媚び諂うのも、一種の遊戯と捉える分には愉しいが、それを生きることの枢軸に関与させてしまえば一挙に虚しくなるものだ。

 つまり私は、もっと「自分の欲望」に就いて明確な認識を持ちたいと考えているのだ。人間は誰でも、他人が欲しがるものを欲しがるという奇妙な欲望の習慣に囚われている。自分自身の欲望を弁えずに、他人の欲望の模倣に明け暮れるなんて、生きている意義がないじゃないか。先ずは己の欲望を悟るべし。此れを我が家の家訓に定めたい。