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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

出世間、超俗、芸術の効果 夏目漱石「草枕」に関する覚書

 先日、夏目漱石の「草枕」(岩波文庫)を読み終えた。

 漱石の実質的な処女作である「吾輩は猫である」と比較しても、恐らくは漢籍の表現がベースとなっている措辞が数多く散見して、読み辛さは此方が上である。読者を煙に巻くような、何とも名状し難い流動的な文章が連なり、断章の積み重ねのように全体が形作られている辺りは、その処女作同様に、所謂「小説」の定型的なパターンから何食わぬ顔で逸脱している破格の作品であると言えよう。この自由さは、彼が生まれ落ちた時代が、近代日本文学の黎明期であったが故の未成熟さの表れと捉えるべきではない。近代日本文学は確かに明治維新以来の文明開化の怒涛の中で、有耶無耶に産声を上げたばかりであったかも知れないが、英文学の研究に携わり、官費でロンドンへ留学した英才である夏目漱石にとっては、小説は既に成熟したジャンルであったに違いない。それを日本という近代化後進国の土壌へ移し替えるに当たっては、用いられる文語の大掛かりな改装工事から始めなければならなかったことは歴史的事実であり、従ってその工事が暗中模索の手探りによって進められ、典雅な様式と均斉を保ち得ない滅茶苦茶な渾沌を抱え込むことを宿命的に強いられていたにしても、彼の初期の作品が明確な筋書きを持たなかったことは断じて、彼が近代文学の典型としての小説に対する無理解を生きていたということの傍証ではない。寧ろ彼は英語を解し、東京帝国大学に講義のコマを有する偉大な新時代の俊英であり、近代化の急先鋒の一人であった筈なのだ。

 つまり、漱石の初期の作品が明確な筋書きや堅牢な物語の秩序を備えていないのは、彼が西洋から持ち込まれた近代文学の範型に通暁していなかったからではなく、寧ろ彼が小説的なものの本質的な雑駁さを心得ていたからではないか。彼は単に江戸戯作の延長のように書いた訳ではない。漢籍と英文学、二つの異質な文化的土壌を異種交配することに、彼の文学的な才能は素晴らしい捌け口を見出した。その結果が、多様な表象の形式を取り得たのは、彼が近代文学などと大仰に名指しされる以前の混沌の中に生きていたことの、副次的な効果であったのだろう。

 「草枕」と「吾輩は猫である」には、自由闊達で脱線を重ねる文体という共通の要素が含有されている。だが、読みながら受ける印象の色彩や明度は決して同一ではない。「草枕」の高踏的な芸術趣味に比べれば、「吾輩は猫である」の方が遥かに辛口の雑駁さに満ちているように見える。「吾輩は猫である」には文明諷刺のユーモアがあり、「草枕」には超俗の境地に関する尤もらしい考察が鏤められている。これらの要素は一見すると対蹠的に感じられるが、どちらの場合にも、社会的な現実に対する奇妙な「距離」が備わっていることには違いがない。この距離は、所謂「小説」に必須の距離感であると言える。少なくとも「文学」と称されるジャンルには常に、社会的な世界を相対化する眼差しが埋め込まれているもので、多かれ少なかれ「超俗」とか「脱俗」といった認識論的な構え方は不可欠の条件なのである。そうでなければ、芸術が芸術として存在する意義は成り立たない。

 私たちが、私たち自身の存在や精神や、或いは自分自身が取り巻かれている外的な環境に関して、一抹の相対化さえ試みずに脳天まで浸ってしまえば、そこに小説的な思考が発現する余地はない。小説的な思考は、その他の様々な芸術的思考同様、眼の前に広がる世界との無自覚な合一を引き剥がすことに力点を置くものだ。「世界」と「私」とが完全に癒着して、互いの存在が境目を持たぬままに絡まり合っている状況では、それを小説的に語り尽くすことは出来ない。小説は常に世界の「裂け目」に就いて語るものであり、その異様な側面に就いて具体的な指摘を行なう表現様式なのだ。

 その意味で、漱石の「草枕」を一種の芸術論として捉えることは実に易しい。何故なら作者自身、露骨にそういう書き方を選んでいるからだ。私たちは直ぐに、漱石自身の芸術論と推測される文章に鼻面をぶつけることになる。だが、小説的な相対化は、単に超俗的な優雅や清廉を称揚することでは成し遂げられない。寧ろ、そのような「超俗」の姿勢さえも凡庸な社会の一部であることに視線を行き届かせない限り、小説は単なる自堕落な随筆以上の浮力を獲得し得ないだろう。「吾輩は猫である」において、あれだけ辛辣なユーモアのセンスを見せつけた漱石が、「草枕」の著述に際して急に足許を乱れさせたと考えるのは的外れな判断である。彼は寧ろ、そのような超俗的精神の滑稽さを意図的に描写しているのだ。那美という風変わりな女性に振り回されて戸惑ってばかりいる画工の「私」は、超俗的な芸術家の境地に憧れながら、一向に俗気を拭い去ることが出来ずにいる。終盤、日露戦争へ出征する若い男を見送る件など、画工の信じている超俗的境地の脆弱さを暗黙裡に証していると言えるだろう。もっと言えば冒頭から作者は「出世間」ということの根本的な不可能性を先回りして告示しているのである。漱石は、極めて苦渋に満ちた、不可能な「夢想」を語っている。その夢想を語るときの幾許の切なさが、「草枕」という作品に「吾輩は猫である」とは異質な風味と手触りを添えているのだろう。

 

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)