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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

理解しがたいものへの不寛容 / 「多様性」をめぐって

思索

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 人間にはそれぞれ、個性というものがあります。無論、遺伝子の配列によって予め定められた生体的な宿命であるとか、或いはそもそも人間という霊長類の一種が集合的に備えている特質であるとか、そういった先験的な条件によって、一定の「枠組み」は事前に規定されていると言うことは出来ます。しかし、そうだとしても、その先験的な条件から、誰しも少なからず逸脱する要素を備えているものです。

 しかし、社会というものは、そのような逸脱に対して余り優しくありません。特に同質的な価値観によって支配されている閉鎖的な、固定した社会においては、異質な事物への風当たりは極めて劇しいものがあると言えます。均質な価値観、それは例えば、日本という国家を「日本人の国家」として定義するような価値観を指しています。実際には様々な出自を有する人々が実際に日本国内で暮らしているというのに、平均的な日本人という観念的なイメージによって、日本という国家が構成されていることを疑わないのは、同質的な社会に特徴的な通弊であると言えましょう。

 無論、人種とか民族といった大きな範疇に限らず、綿密に検討していけば、この世界には無限の分類法が氾濫しています。性別や門地、宗教的信仰、政治的信条、学歴、職業、容姿など、人間を分類する基準は実に様々です。しかし、それらの基準は、基準として機能するからこそ、原則として「一面的であること」を免かれないし、従って構造的な限界を内包しています。

 一面的な基準によって物事を判断すること、或いは人間を「値踏み」することは、私たちの属する「社会」においては広く行われている慣習です。職業や年収で比較すること、性別によって判断を変えること、肌の色が違う、瞳の色が違うという理由で接し方を改めること、これらの慣習は私たちの社会に根差した、堅牢な不文律です。こうした慣習が、多様性という理念に正面から対立する規則であることは言うまでもありません。多様な存在を一律の基準に立脚して「序列化」すること、これは社会や集団が「組織」として活動する上での根本的な原理なのです。

 しかし、そのような一面的な基準が「裁判」めいた様相を呈し始めると、不幸な事態が頻発することになります。魔女狩りに明け暮れる異端審問官のように、組織の重役たちは、異質な存在、理解し難い存在を、異質であり、理解し難いという理由によって序列の下層へ位置づけ、尤もらしい理窟の下に断罪する権能を有しています。別に大袈裟な話をしている訳ではなく、こうした現象は、私たちの暮らす社会の彼方此方で、毎分毎秒発生しています。それによって損なわれる「個性」への尊重は、私たちの社会から多様性という理念を剥奪します。

 例えば企業なら、売上や収益に貢献することが重要な美徳と看做され、労働者の価値として、存在意義として讃えられます。その評価の指標は概ね「数値」という、抽象化された符合の列なりです。そうやってデジタルな指標に置き換えられた「成果」が、生身の人間に対する社会的な評価を左右するのです。これは極めて合理的な「統治」の方法に他ならないのですが、こうした手法は本質的に「多様性の捨象」を前提としています。何故なら、多様性をそのまま評価すること、総合的に受け止めることは、非常に大きなコストを要求するからです。ポイントを絞って、それを無味乾燥な数式に入力して、弾き出されたデジタルな符合を、一律の基準に基づいて序列化することに比べれば、個人の多様性に一つ一つ向き合って精確な判断を下していくという作業は、恐るべき重労働なのです。そのような重労働に堪えかねて、或いは物理的な限界を迎えた結果、人はもっと簡便な「評価」の手法を欲します。それ自体を、声高に咎めても仕方ないのですが、そのような簡便な「評価」が絶対的な権威を備えるようになれば、私たちは生身の個人として、その権威に抗う術を編み出さなければなりません。

 多様性を評価すること、それは時に、自分にとって理解し難い存在や事物を尊重することも意味します。それは組織に限らず、個人の私的な価値観においても、決して容易な業ではありません。しかし、理解し難いものへの不寛容は今後、益々「罪悪」としての性格を強めていくことになるでしょう。誰しも「理解し難い存在」としての側面を孕んでいるのですから、多様性という理念への冒涜は本質的に、自傷行為の一種であるとも言えるのです。