サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

確信を持って語れることが、私に幾つあるだろう?

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 こうしてブログを書いたり、或いは日常の会話の中で意見や感想を交わしたりするとき、私たちは実に多くの「考え」や「認識」を語っていますが、その考えが常に「確信」によって支えられているという方は、いらっしゃいますか?

 その場の勢いで書いたり喋ったりした言葉は、実際には他人からの受け売りであったり、漠然とした粗雑な思いつきであったりすることが少なくありません。人間は直ぐに嘘を吐いてしまう生き物ですが、その度し難い習性は他人だけに向けられている訳ではなく、自分自身さえも容易に欺いてしまうのです。だから、自分が本当に信じていることだけを選択的に語ることは極めて困難であり、寧ろ聞き齧った知識をそれらしく纏めて一丁前の「意見」として開陳することの方が、技術的な錬度だけが問われる作業なので、遥かに容易なのです。

 こうして書きながら、これらの文章さえも、果たして本当に自分が自分の頭で考え抜いた見解なのか、心許ないというのが正直な感想です。私はこの「サラダ坊主日記」というブログの中で、過去に多くの記事を通じて自分の意見や感想を述べてきましたが、それらが単なる表層的な言葉の列なりに過ぎないかも知れない、という危惧と無縁ではいられません。

 勘違いしないで欲しいのは、そうやって確信の持てない言葉を語ることが「罪悪」であると言いたい訳ではないという点です。確信があろうがなかろうが、感じるままに迸らせた言葉の中から、自分自身が今まで思いも寄らなかった発想や認識に気付くことは可能ですし、そうやって得られた新たな考えは紛れもない価値を有しています。ですから、こうやって営々と一貫性のないブログを書くことも強ち無価値ではないと思います。

 ただ、借り物の言葉だけで世界を捉えるのは、やはり虚しいことだなというのが、私の素朴な実感です。正しい意見であるかどうか、ということではなく、自分自身の実感と強く深く結びついた意見であるかどうか、ということが、考えるという営為の最も重要な本質であり、「尊厳」なのではないかと思うのです。

 こういうことを不意に私が言い出したのは、社会へ出て勤人としての暮らしを始めてから十年が経ち、或る意味で色々と振り返ることが増えているからなのかも知れません。大人になる以前から、私は自分という存在と、社会という外在的な実体との間に穿たれた「疎隔」を巡って、ずっと懊悩を重ねて来ました。とはいえ、それほど深刻な問題を語ろうとしているのではなく、誰でも身に覚えがある筈の基本的な「葛藤」を指しているだけです。程度の差はあれ、人は自分と他人との相違点に拘泥し、一喜一憂を繰り返す憐れな生き物です。

 要するに、私は自分の人生に関して、一体幾つの揺るぎない信条を持ち得ているだろうか、と考えることが最近、増えているのです。尤もらしく聞こえる意見を吐きながら、私は自分自身、その尤もらしい意見を信じているだろうか、と不安に感じるのです。別の言い方をすれば、そういう表層的な「正論」に強い「虚しさ」を覚えるのです。それは十代の頃、今よりも遥かに強烈に感じていた「虚しさ」の再燃なのでしょうか。つまり、借り物の、既製品の、見ず知らずの他人の手で形作られた、決まり切ったクリシェを、自分の意見のように、自分の奉ずる信条のように語ることが、酷く馬鹿馬鹿しい行為のように思えてならないのです。社会に出て、仕事をしていれば、どうしても「立場」に基づいて物事を語る機会が増えていきます。役割に縛られ、組織に縛られて、私の躰はまるで濁ったフィルターのようです。私は誰かの作り出した「論理」を透過する為の通気孔のようです。「確信」という言葉に、今日の私が執着しているのは、そのような「通気孔」としての存在の仕方が、まさしく「確信」という理念から最も隔たっているからです。

 私たち人間は時に、余りにも容易く「嘘」を吐いてしまい、その「嘘」を信じ込む為に、自分自身の魂さえも欺こうと力を尽くす生き物です。正直な想いだけを書こうと固く決意しても、実際には有形無形の様々な抵抗勢力が、そのような決意に爪を立て、牙を剥こうと企てます。少しの潤色もない、少しの隠蔽も改竄もない文章を書くこと、そうやって己の「本心」を表現すること、自分の魂そのものに具体的な形を与えること、それは極めて困難な作業です。しかし、今の私にとっては、書くことは「本心」の発掘以外の目的を持たないのではないか、という気もします。

 色々な社会的欲望が、書くという行為には絶えず纏わりつきます。私自身、小さい頃から小説家になりたいという夢を持ち、今でも書くことで生計を立てていきたいという展望、願いを持っています。それは極めて世俗的な欲望、つまり金を稼ぎたいとか、社会的な評価を得たいとか、それによってナルシシズム的な充足感を味わいたいとか、そういう下世話な欲望と緊密に結び付いています。無論、それらの欲望が自分の中に存在すること自体を否定しようとは思いませんし、そのような欲望が直ちに断罪されるべきだとも考えていませんが、結局のところ、それは「書くこと」によって「己の本心」を暴き出す、いや、「己の本心」と邂逅するという営為の重要性に比べれば、副次的な効果に過ぎないのかも知れません。

 自分自身に就いて書いたところで、読む人には退屈だろう、誰の関心も惹かないだろう、という思いが、ブログを始めて以来、長い間、私の心には付き纏ってきました。実際、私という人間の想いや考えに就いて書くことは、十中八九、社会的な無関心としか出会うことが出来ないでしょう。しかし、そうだとしても、私という人間に就いて粘り強く、執拗に書き続けることは、私という人間にとっては極めて重要なことなのかも知れません。別の言い方をすれば、それは「確信」に辿り着く為に欠かすことの出来ない、重要な道程であるということです。社会に出ることは、他人に合わせて嘘を吐くことだ、私はこれから、その練習を積み重ねていかなければならないと、二十歳のとき、世間に面する突堤に立って、私は歯を食い縛って覚悟を決めました。そうやって、十年間、曲がりなりにも社会人として働いてきて、今になって痛感するのは、やはり「正直であること」の価値は普遍的であるという簡明な事実です。他人と折り合いをつけるのが不得手であった二十歳前後の私は、すっかり俗塵に塗れて、人付き合いの技巧にも随分と通暁するようになってきましたが、その代わりに、目映いばかりの「自分自身に対する正直さ」という美徳には、疎遠になってしまったのかも知れません。

 しかし、唯一の救いは、私には「書く」という手段があり、その手段に関しては、地道な努力を継続してきたという経験的事実が存在する、という点です。それは私の書く技術が、世間一般の基準に照らして優れているという意味ではありません。重要なのは、私が体裁を取り繕って周囲へ諂いながら生きてきた、この勤人としての十年間においても、ずっと「書く」という営為に固執し、何かしらの文章を草し続けてきたという、紛れもない「事実」だけです。先ずはそこから始めなければならないと、今、切実に思います。つまり、少しでも「己の本心」を知る為にこそ、私は明日も明後日も、こうして何かを書かなければならないのだと、切実に感じているのです。