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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

表現することは、肯定すること

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 今日の記事の主題は、表題に掲げた通り、「表現することは肯定することではないか」という着想に就いて、考えを巡らせることにあります。

 何故、表現することが肯定することと結び付けられるのか、という疑問を、いきなり抽象的な位相から眺めてしまうと、リアルな理解が難しくなるような予感がするので、前段を踏まえておきたいと思います。 

saladboze.hatenablog.com

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 これらの記事の中で、私は「書くこと」の目的を「己の本心と出会うこと」だという風に定義しました。勿論、書くという手段に頼らずとも、己の本心を知ることは不可能ではありませんが、私自身について言えば、それが一番合理的な手段だと感じるのです。

 一つ一つ言葉を選びながら、少しでも自分の「本音」に近い旋律を備えた文章を刻みつけていくことで、それまで見えなかった自分の「側面」が徐々に、薄らと視界の中へ浮かび上がってくる、というのが、私の考える「書くこと」のイメージです。

 そして書かれたものの表現力、伝達力、衝撃力は、そうやって丹念に掬い上げられ、掘り下げられた言葉たちが、どれだけ自分自身の「本心」に根差しているか、或いは肉迫し得ているかということによって決まります。表層的な、恣意的な、個人的な必然性を持たない、そのくせ聞こえだけは心地良い言葉の継ぎ接ぎで編み出された文章は、相応の社会的な評価を得ることは出来ても、本当の意味で読者の精神に訴え掛けたり、互いに響き合ったりすることは出来ません。社会の価値観に沿って作り出された文章は、それがどれだけ技巧的に優れていたとしても、煎じ詰めれば単なる「一般論」に過ぎず、個人の実存そのものと結び付く訳ではないからです。

 因みに「本心と出会う」というのは、自分の感情や信条を垂れ流すという意味ではありません。勿論、限りなくそれに近いとも言えるのですが、そこには微妙な相違点が介在しているような気がします。重要なのは、自分自身が正しいと信じられるものを、社会の価値観や他人の意見に押し流されずに、浮かび上がらせることです。思い浮かんだことを適当に列ねていけば、自分自身の本心が表れると考えるのは、端的に言って怠惰な思想であり、恐らくは「書くこと」の泥濘に踏み込むような困難を痛感した経験のない人の考え方でしょう。何故なら人間というのは、殆ど自動的に、自分では信じてもいない他人の言葉を、恰かも自分の信条のように語ってしまう生き物だからです。それほど人間というのは筋金入りの「社会的動物」なのです。ですから、少しでも油断すれば無意識のうちに、私たちの書き綴る文章の中には「他人の言葉」が何らの検証も受けぬままに混じり込んできます。

 勿論、厳密に考えれば、書くという営為自体、他人の作り出した言葉の規則に従うことを意味しているのですから、書くことに「他人の言葉」が濫れているのは寧ろ自明の事実であると言えるでしょう。しかし、だからと言って、無自覚に語られた「他人の言葉」を「自分の言葉」と取り違えることが、止むを得ない現象だと開き直るのは、書くことの倫理に反する考えであると、私は思います。言葉は先人の作り上げた遺制であり、他人の発明した外在的な媒体なのだから、そこに自分の想いを籠めることなど出来ないと、シニカルに言い捨てたところで、一体何の利益が得られるでしょう? 寧ろ、私たちは発想を逆転させるべきです。徹頭徹尾、他人=社会の所有物でしかない「言葉」を用いて、自分の正直な「想い」を表す為には、どうすればいいのか、という問いを立てるべきなのです。

 書くことの倫理は、今まさにこうして書き綴っている言葉の一つ一つが、自分の「本音」と乖離していないかどうか、絶えず検証することに存すると、私は思います。そうでなければ、わざわざ自己表現の手段として「書くこと」を選択する意義が成り立ちません。「書くこと」が借り物の言葉を巧みに繋ぎ合わせて尤もらしい理路を形作ることに過ぎないのであれば、それはどれだけ技巧的な意味で名文であったとしても、退屈であることを免かれません。何故なら、そのような文章に含まれているのは「分かり切った話」ばかりだからです。既に社会によって、或いは社会的な多数派によって「正しい」と公的に認められた理路を、無名の個人が殊更に辿り直すことに、何の価値があるでしょうか? 既に言葉として成立しているものを引き写すだけなら、文章を書くことは「機械的な反復」にしかならないのです。「機械的な反復」が眠気を誘うものであることは、言うまでもありません。

 要するに私は、自分が今、本当に感じていること、考えていることに具体的な「表現」を授け、そのことを通じて他人に「伝える」ことが、書くことの本義であると言いたいのです。これは手垢に塗れた御題目に聞こえるかも知れません。分かり切った話じゃないかと思われるかも知れません。勿論、私自身、こうやって要約すれば直ちに自分の理想が実現するだろうなどと、甘い期待を懐いている訳ではないのです。ただ、重要なことなので再確認しておきたいと思うのです。また、この「分かり切った話」において見落とされがちな「鍵」について、確りと認識を深めておきたいのです。

 考えていることに「表現」という輪郭を与え、それを他人に「伝えよう」とするとき、私たちは直ぐに「他人の言葉」を借用してしまいます。何故なら、その方が「伝わり易い」からです。もっと言えば、それは「既に伝わっている言葉」の踏襲に過ぎません。私が言いたいことが伝わるでしょうか? 「相手に伝わる」ことを重視する余り、既に流通している言葉を借用して、それで何かを「表現」した気持ちになる、というのは、書くことに纏わる最も危険な「陥穽」の一つです。このとき、私たちは「己の本心」を、それとは異質な何かに掏り替えています。「伝えること」「伝わること」を最優先した結果、私たちは「本当の想い」から遠く隔たっていきます。それでは、書くことが「価値」を生み出さなくなってしまいます。

 「己の本心」というのは本来、伝わり辛いものです。それは社会的に共有された価値観ではなく(社会的に共有された価値観ならば、わざわざ「伝える」必要は生じません)、個人的な魂から発する不可解な感情です。場合によっては、それは社会的な多数派によって是認されないばかりか、厳しい弾圧を蒙る危険を帯びています。つまり、本来ならば「口に出すべきではないこと」が「己の本心」の主要な成分なのです。坂口安吾の「堕落論」も、社会的な道徳を排撃することに重点を置いていますが、それは普通ならば「顰蹙を買う話」なのです。彼の場合は、敗戦によってそれまで信じられていた価値観がガラガラと瓦解してしまった戦後間もない日本の社会的風土の中で、圧倒的な支持を受けた訳ですが、例えば戦時中にああいう過激なアジテーションを仕掛ければ、きっと大変な眼に遭ったに違いないと思います(坂口安吾ほどの人物ならば、大変な眼に遭っても己の信条を貫き通したかも知れませんが)。

 だから、書くことの困難さは、「口に出すべきではないこと」を赤裸々に書き表すことの困難さであるということになり、従ってそこには「自由」や「個人」や「孤独」といった問題意識が必ず附随することにもなります。作家という職業が、社会的な道徳など踏み躙る天衣無縫なイメージと共に語られた時代があったことも、この点に由来するのかも知れません。そして、それほどの困難を代償としてでも、彼らが「現世の真実」を書き表そうと熱意を燃え立たせるのは、社会から隔てられた「本心」を肯定する為であったに違いないと、私は思います。

 表現することが、肯定することに繋がるというのは、表現することが、社会的に認められることのない、或いは認められ難い「本心」に脚光を浴びせ、形と輪郭を与え、その存在に「承認」を与えようとする行為であるからです。社会的な多数派に与することだけを考え、多数決によって認められた公共的な「真理」に隷属することだけを正義と呼ぶのならば、個人の「本心」は圧殺されるのみです。しかし、個人の「本心」を圧殺することで社会的な安定を確保しようとする権力の欲望に、唯々諾々と従わねばならない義理はないのです。独裁的な政権は必ず「表現の自由」を禁じます。何故なら、表現することは常に「個人の本心」に対する承認を通じて「自由」の理念と結び付くからです。