サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

転職すれば世界が変わるだろうという思い込み VS 転職したって世界は変わらないだろうという思い込み

 転職すれば世界が変わるだろうという思い込みは、今の仕事に、或いは直接仕事に関わらずとも自分の現状に不満がある場合に、恩寵のように降臨する美しい幻想であろう。転職という言葉に固執せずとも、環境を変えることで今の自分から脱皮出来る、今まで出来なかったことが出来るようになると、半ば縋るように思い込み、願い、信じようと努めることは、それほど現状に強い閉塞感を覚えていることの証左なのだ。ロマンティシズムの一種であると言い換えても良い。

 一方、転職したって、つまり環境を変えてみたところで、同じ人間の遣ることなのだから、世界が一変するなんてことは有り得ないとペシミスティックに断定してみせるパターンというのも存在する。そういう人間の閉塞感というのは或る意味、環境を変えれば世界は変わると信じている人の閉塞感よりも遥かに絶望の度合が深刻であると言えるだろう。転職すれば世界が変わると素直に信じ込んでいる人は、世界は変えられるという根本的な信憑を携えて生きているが、転職しても何かが変わる訳ではないという考えの持ち主の眼に、世界はとても平板なものとして映じているのではないかと思う。

 現状への不満が、環境を変えることで自分はより多くの幸福を手にすることが出来るというロマンティックな未来図を生み出すのに対し、転職しても世界が変わることはないというペシミズムの信徒は、この世界が絶対的な膠着の下に支配されているということを原理的な事実として受け容れている。与えられたものは、書き替えることが出来ないという、その断念は、必ずしも運命に対する従容たる態度として位置付けられるべきではない。彼らは無常観に反発を示す、或いは逆に言えば、徹底的に無常観に支配され、骨髄まで蝕まれている。重要なのは、彼らが世界の変革可能性を信じていないということであり、或いは世界の変革可能性に対して怠惰であるという点に存している。

 しかし、本当に世界は変えられないのだろうか。無論、所与の現実に根差して、有限の条件の中で、遣れる限りのことを遣ってみせる、それが着実な成長、本物の変革を生み出すのだという、折衷主義的な決意というものも、この世には広く瀰漫している。それはそれで、実践主義的な覚悟であり、そうした考え方の汎用性は決して低くないと私も思う。実際、私だって社会に出てから十年間、そういう風に考えて、同じ会社に勤め続けてきたのだ。過去には、退職に踏み切った部下に対しても、私はそのような意味合いのことを言った。環境を変えれば自分は成長出来ると思うのは甘い考えだ、もっと言えば幻想だ。自分自身が変わらなければ、環境を幾ら変えてみたところで結果は同じままだ。

 それも一面では真実だったと思うけれど、どんな真理も、一面的であるという意味では不完全であるほかない。そのような考え方は、私自身が環境の変化を望んでいないという個人的な感情を背景にして語られた「指導」の言葉であった。彼女はそれでも自分は新しい世界へ生きたい、挑戦したいのだと言い張った。強情な奴だなと私は思った。けれど、最終的にはそれも一つの選択だろうと思った。その子には、強情なほどの覚悟と、幾らでも遣り直しの利く若さがあった。退職する彼女への色紙に、私は自分が彼女を上司として導いてあげられなかったことへの謝罪と、新天地へ旅立つ彼女への激励の言葉を書き綴った。彼女の退職日が来る前に、私は人事異動で別の店舗へ移ってしまったので、最終日には会えなかったが、後日メールが届いた。色紙の言葉に感動して、涙が止まらなかったと彼女は言っていた。

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 転職を考え始めて以来、私はこれまでの価値観が俄かに色褪せ、疑わしくなっていくのを如実に感じるようになった。それまで囚われていた価値観の枠組みが、本当はとても狭苦しい範囲でしか通用しないものだったのではないか、という疑念が、日増しに勢いを増しつつある。新卒で入った会社をたった一年余りで、農業をやりたいと言って飛び出していった彼女のことを、私は他人事とは思えない境涯に、知らぬ間に流れ着いてしまったのである。

 無論、退職ということを考えた経験は過去にもある。離婚して精神的に参っていた時期にも、真剣に離職を検討した。けれど、何度も思い直して、今日に至っている。私は小さい頃から小説家に憧れていて、ずっと書くことを趣味として続けてきた。そういった意味では、どんな仕事も私の本意ではないと言えば本意ではないのだ。だが、社会へ出て十年が経ち、実際には、小説家になりたいという夢も、本物なのか怪しく感じられるようになった。書くことが好きなのは間違いのない実感だが、それが所謂「小説家」という形式によって充足され得るものなのか、正直に言えば確信は有していない。

 結局、本当に自分が望んでいるものは何なのか、それを発見することは出来ていないのだ。だから、何が自分の本心なのか分からないのか、とりあえず眼前の役割に没頭してみるという選択も、決して悪いものではない。そうやって手探りで積み重ねたものが、知らぬ間に大きな財産を築き上げている場合もあるからだ。

 少なくとも私は、現状に満足していない。環境を変えることで、不満足な現状を改革する為の機会を掴みたいと考えている。けれど、それは私の「本音」だろうか? 単なる無責任な博打に過ぎないのではないか? 今の環境に未来が見出せないと思い込んで、無思慮な暴走へ踏み切ろうとしているだけではないのか?

 逆に考えてみる。今、私が勤め先の仕事に執着する理由があるとすれば、それは何だろうか? 十年間の経験の蓄積、これは大きな理由だろう。十年間も続ければ、日々の業務をこなすことに厖大なエネルギーを使う必要はなくなる。熟練とはそういうことだ。しかし、熟練に甘んじてしまえば、新しい発想は生まれ辛くなる。現状を変えるより、恥を忍んで現状を維持した方が、目先の生活は安逸に営んでいける。十年間で積み重ねてきた昇給のことだって、蔑ろには出来ない。つまり、経済的な理由と、精神的な理由だ。今のままを維持していけば、経済的にも精神的にも、それなりの安定は確保していられる。だが、そのような生き方に、輝かしい未来、自分が本当に心の底から望む未来が拓けていくだろうか?

 大体、世の中に「現状維持の安楽」が許される世界など、そんなに数多くは残されていない。変化の速度が日増しに上昇し続けている時代の中で、何時までも同一の幸福を維持し続けることは至極困難だ。それに、変わらないままの自分を見凝め続けることは、気楽だとしても、着実に自分自身の力を損なっていく。或いは、自信を腐らせていく。不思議なもので、自信というのは更新され続けない限り、確実に痩せ細っていく。いわば、生鮮食品のようなものだ。

 環境が変わらないまま、見える景色が変わらないまま、徐々に倦怠に搦め捕られていく自分を、情けないと思う気持ちもある。今の場所で遣れる限りのことを総て遣り尽くしたのかと問われれば、そうではないと答えるしかない。他にも遣れることは幾らでもあるだろう。たとえ既視感のある挑戦だとしても、昔試して巧く行かなかった手段が、今も通用しないとは限らない。環境は絶えず変貌し続け、必要な措置も目紛しく切り替わっていく。けれど、既視感のある風景の中で、何かの焼き直しのような挑戦を想像することに、今の私は意欲を持てずにいる。自己洗脳が足りないのだろうか? だが、私が本当に望んでいる生き方が、この場所にあるとは思えないのだ。勿論、小さな歓びを見出して、自分の鬱々たる心情を騙しながら日々を凌いでいくことも出来る。過去にも、そうやって苦しい胸中を扼殺して踏ん張り、眼前の仕事に向き直ることで、自分を支えたことは一度や二度ではないのだ。

 結局、私は誰にも雇われずに生きたいのだと思う。今の会社に嫌気が差した背景にも、年々「管理」が厳しくなっていく社内の体制の変化への反発が影響している。勿論、何かを管理することは仕事の基礎であり、原理原則でもあるだろう。何も管理せずに、企業として社会へ貢献していくことは出来ない。だが、一方では「管理」こそが最大の美徳であり、仕事の本質であるかのように錯覚する人もいる。独裁者のように、細かな規則違反も見逃さず、杓子定規に「審判」の役割を貫くことが「管理」だと思い込んでいるのだ。だが、私の意見としては、審判のようにホイッスルを吹けばそれで「管理」したことになり、従って「業務」を遂行したことにもなるという価値観は、余りに窮屈だし、狭量に過ぎる。会社の規模が大きくなれば、管理が濃やかさを失い、報告書の数字に依拠した、現場の実感と乖離した非人間的な管理が幅を利かせるようになるのも、止むを得ない成り行きなのだろう。内閣総理大臣が、一億を越える日本国民全員の意見を個別に聴き届けることなど、不可能に決まっている。それと同じことだ。

 何処へ往っても「管理」「管理」「管理」と連呼される世の中、つまりは「管理社会」の本格的な到来という訳だが、収益管理、安全管理、労務管理、商品管理、衛生管理、こうした様々な「管理」を厳格に執行すべく編み出される夥しい「ルール」の山には眩暈を覚える。色々なことが、誰が定めたのかも曖昧な、オフィシャルな基準に基づいて妥当性を吟味される。出来ていないこと、違反行為ばかりが取り沙汰され、減点主義の評価方法が「錦の御旗」として振り翳される。

 そういうものに嫌気が差したと言っても、組織に所属する以上は、規則や管理と手を切ることは出来ない。そうやって私も上意下達の「管理」のラインに組み込まれ、立場で物を言う機会が増えていく。そうだった。私は「立場」で物を言う機会がどんどん増えていくことに、嫌気が差していたのだった。自分が信じる正義に基づいて仕事を進めることが年々難しくなっていき、御仕着せの「正論」ばかりが社内を偉そうに闊歩する。その御仕着せに袖を通すことが大好きな人間だけが、居丈高に出世していく。昔から繰り返されてきた醜怪な構図には違いない。ただ、私はそんなのは嫌だと言いたい。

 私の最も根本的な思想は、「管理されたくない」という言葉に尽きる。勿論、本当に管理されたくないのならば、組織に属さず、経済的な自立を獲得する必要がある。その為の過渡期として、私は転職という選択肢を検討しているのだ。いや、或いは「管理の在り方」を変えたいと言うべきだろうか。御仕着せの管理ではない、血の通った「管理」は実現し得ないだろうか? いや、出来る筈だ。私は自分自身に言い聞かせよう。「世界は変えられるという信仰の側に、私は立つのだ」と。