サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「情」の問題

 引き続き、私の人生において目下、最重要の問題である「転職活動」を通じて考えたことを徒然と書き綴ることにする。

 直属の上司に退職の意思を打ち明けたところ、上には報告せずにおくから考え直せと言われ、数日が経過した。今でも退職、転職という基本的な方針に変わりはない。週明けには一次面接を二社受ける予定になっており、そこで会社の雰囲気や考え方などを探ってみたいと考えている。

 そうやって徐々に、遅々とした歩みながらも物事が新しい方向へ進んでいく中で、退職した自分の姿を想像してみる場面は幾度も巡ってくるのだが、昨夜仕事から帰って、最近の日課である転職情報のネットサーフィンをしているときに、不図哀切な想いが突き上げてきた。今の勤め先を辞めることに対する「淋しさ」が、俄かに迫り上がってきたのだ。

 転職を考えるということは、それまで抑圧されていた自分自身の「本心」に眼を向けることであり、隠されていた潜在的な「本音」を深い井戸の底から汲み上げることに等しい。当然、その過程においては今までの自分の生き方について、慎重で稠密な棚卸を強いられることにもなり、過ぎ去った日々の風景が今更のように眼裏へ浮かぶことも一再ではない。十年間、短いと言えば短かいし、長いと言えば長い。弱々しい声でミルクを求めて泣き喚いていた赤ん坊が、ランドセルを背負って元気一杯に運動場を走り回れるようになるくらいには、長い歳月だ。二十歳のとき、私は何の取り柄も知識も経験も備えていないのに、妻子を養うという大変な重責を負うことを自らの意志で選び取った。成り行きに強いられた部分が大きいことも事実だが、決断を下したのは紛れもなく自分自身だった。業務用複合機の法人営業を行なう会社に雇われ、たった三月で欠を割って、当時の妻の誕生日に無職となった愚かな私を、今の会社は寛大にも拾い上げてくれた。辛いことや苦しいことも山ほどあったし、繁忙期の働き方は修羅場以外の何物でもないが、それでも私は現職に矜りと情熱を以て取り組んできた。

 結局、別れる時になって人間は、自分が持っていたものの価値を冷静に理解し、その意義を痛感するように出来上がっているのだろう。「訣別」は常に感傷を伴う。その感傷の味は酷く甘ったるい。辛いことも苦しいことも嬉しいことも総て引っ括めて、人間は縁のあった土地で暮らし、縁のあった職場で労働に励む。そうやって世の中の仕組みは稼働している。

 こういうのは所謂「情」の問題であろう。仕事に限らず、何でも同じことで、人は長く関わっていた物事から退く際に痛ましいような未練や後悔を覚えるものだ。例えば私は大阪府枚方市で生まれ育ったが、十四歳で千葉県松戸市へ引っ越した時は、長く暮らした土地への胸を焼くような郷愁に酷く苦しめられた。新しい環境へ飛び込み、巧く馴染めずにいた頃は特に、想い出が輝かしく見えて辛かった。

 だが、今では大阪に帰りたいという考えとは完全に無縁のまま、幕張へ持ち家を買って終の栖にしようと心に決めている。住めば都という俚諺は、そういう人間の身も蓋もない心理を巧みに、極めて簡明に言い当てているのだ。 

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 或いは離婚のときも同様で、一緒に暮らしている間は喧嘩が絶えなかった相手なのに、いざ別れて家を出るとなると無性に淋しく、別れ難かった。独り暮らしのアパートへ荷物を運び込んで間もなく、誰もいない一間の暗い部屋で蒲団に身を横たえても一向に寝付けず、夜中に前妻へ電話を掛け、元々住んでいた家の近くのファミレスへ呼び出して離婚の取消を持ち掛けたことさえある。だが、先方は私の悲痛な申し出をやんわりと断り、淋しいのは今だけだから堪えなさい、今更元に戻っても遣り直せるとは思えない、貴方は貴方の人生を歩むべきだと、八歳年上の貫禄を惜しみなく発揮して、首を横に振った。実際、彼女の言う通りだった。冷え切った関係を修復し得るかも知れないという淡い期待を懐いて過ごした一年間を経て、この人に一生を捧げることは出来ないと確信したとき、私は離婚を決意して彼女に告げた。固より彼女は「貴方に任せる」という実に無責任な科白を予て繰り返しているばかりだったので、それから事態は急速な変貌を遂げた。離婚から概ね二年後、私は今の伴侶と籍を入れ、今春には娘が生まれた。現在の私に、離婚という選択への後悔は微塵もない。

 引越、離婚、何れも一種の訣別であり、そこに「情」が絡むのは避け難い成り行きである。誰しも長く関わった事物には愛着を持つ。同時に、倦怠を覚える瞬間もあるだろう。その微妙な反復、揺らぎの中で、少しずつ着実に己の「本音」を見定めていく以外に、生きる途はない。結局、既に手に入れたもの、馴染み深いものを手放さない限り、新しい何かを獲得する術はないので、何も代償を支払わずに無いもの強請りをするのは虫が良過ぎるのである。そんな都合のいい損益計算書を欲しがったところで虚しく月日が流れ去っていくばかりだ。

 「情に流される」という言葉は概ね、肯定的な意味合いでは使われない表現である。情に絆され、情に流されて、現状を革めないままにずるずると引き摺られ、押し流されていくうちに、どうにもならない袋小路へ追い詰められるのが人の世の習いである。そういう受動的な生き方を、私は望んでいない。いい加減、覚悟を固めるべきなのだ。束の間の感情的な迷妄に惑わされて、今後数十年は続くであろうと見込まれる残りの人生を棒に振るようなことはしたくない。現状維持は後退であると、巷間に氾濫するビジネス書の著者たちは言いたがる。そういう勇ましい科白に、今までの私は余り感心した例がないが、自分自身の半生を顧みても、何かを捨て去る勇敢な決断だけが、新たな人生の局面を切り拓き、新たな幸福を齎してくれたのだと、素直に信じることが出来る。訣別は常に辛く、甘く、感傷的である。だが、本当の人生は感傷の酸化作用に蝕まれることで徐々に毀損されていく。私は、私の人生を切り拓く為に、私の意思に基づいて決断を下す。勿論、熟慮を重ねた上で踏み切らねばならないが、熟慮という体裁のいい言葉を臆病な自分の免罪符に流用するような類の怠慢は、厳に慎まなければならない。