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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

限られた時間の中で生きること

仕事

 連日、転職を巡る諸問題が私の頭を悩ませている。そう書くと、酷く苦しんだり憔悴したりしているように聞こえるかも知れないが、思い詰めてはいない。ただ、考えなければならないこと、改めて検討しておかなければならないこと、それらが泡沫のように次々と浮かび上がってくるのだ。その忍耐強い思索の涯に、正しく報われる日が訪れることを祈っている。勿論、他力本願に、運命の神様の御慈悲に縋ろうと考えている訳ではない。結局は自分で決断し、自分で行動して運命を切り拓く以外に方法はない。だが、内定が取れた訳ではないので、何だか宙吊りのような落ち着かない感覚が常時消え去らない。

 今日、売場へ応援と指導に来た上司から、手透きの時に呼ばれて、退職の意思は革まったかと訊ねられた。勿論、直ぐに結論を出せと言っている訳ではないと前置きをした上で、彼は私の決断が鈍ったかどうかを確かめようとした。嫁と話し合ったか、嫁は何と言っていると、外堀を埋めようとするような質問だった。私は正直に、嫁は今の仕事を絶対に続けて欲しいとは考えていませんと答えた。上司は少し疑ぐるような、或いは失望したような様子で、そうかと言った。今は子育てに専念している妻も、以前はアルバイトの身分ながら同じ会社で働いていて、私の上司とも顔見知りなのだ。だから、彼は自分の意見が私の妻にも何らかの影響力を及ぼし得ると踏んだらしい。何れにせよ、彼は悪人ではないが、少なからず自信過剰であり、周囲の空気に敏感であるとは言い難い。自分の見たいように物事を捉えて、その幻想を疑おうともしないのだ。

 先日の記事で述べた通り、私は現在の勤め先に愛着を懐いている。十年も厄介になってきた会社に、恨み辛みばかりを叩きつけようとは考えもしていない。けれど、私自身の人生設計と、会社に対する「情」の問題を不用意に混淆させてしまうと、色々なことが巧く立ち行かなくなるだろうと、本能が警告を発している。過去ばかり眺めれば、懐かしい想い出ばかりが迫り上がって、魂を掴まれてしまうに決まっている。重要なのは未来に眼を向けることであり、八十歳で死ぬとしても五十年の歳月が残されている己の将来に関して、建設的な展望を築き上げることだ。新しい未来へ、現在の生活の延長線上に存在する、過去の複製のような未来ではない、異質な未来へ己の身を投じようと企図するならば、感傷の手鎖に何時までも繋がれたままではいられない。過去を懐かしむことが、未来を妨げるのならば、さっさと絡み合う指先を払い除けるべきなのだ。

 とりあえず九月一杯は、ゆっくりと思い悩もうと心に決めている。週明けの一次面接で、絶望的な状況に陥る虞も皆無ではないのだ。だが、その会社に落ちたとしても、他の就職先が一切見つからないほど不人気な自分ではないと思うし、何れにせよ現在の会社で数十年のキャリアを積み上げていく心構えがないのならば、働く場所は革めるべきだろう。齢を重ねるほどに腰は重くなり、転職市場における引き合いも乏しくなっていく。そうなってから慌てても無益だし、思い切って博打に出る勇気も時には大切な人格的習慣であろう。

 何の未練もないと言い切れるだろうかと、自分自身へ繰り返し訊ねてみる。他の環境へ飛び込んで馴染めるだろうか、投げ出さずに歯を食い縛れるだろうかと問い掛けてみる。だが、転職するかどうかに関わらず、働くことは常に歯を食い縛ることと切り離し難い。どんなに充実した職務であっても、働くことは奉仕であり、従って自分の意のままには扱えない代物なのだ。そう思い直して、幾度も辞めたくなる衝動を堪え、綱渡りの危うさで十年間の星霜を生き延びてきた。そろそろ、新しい地図を購ってみても、運命に罰せられる筋合いはないと思うのだが、どうだろうか。いや、こうして誰かに漠然と、無責任な問い掛けを行なうのは負の徴候である。重要なのは、覚悟を固めることだ。自分の選び取った道筋に、責任を負うことだ。

 限られた時間の中で生きることを定められた私たちなのだから、誰かに甘えてばかりもいられない。今の会社に愛着を感じ、長年慣れ親しんだ環境から脱け出すことに不安と淋しさを覚えるのは結局、会社に甘えている、或いは依存していることの証左ではないか。私が如何なる決断に踏み切ろうとも、会社が私の人生に対して責任を負ってくれる訳でないし、誰かが私の代わりに私の人生を営んでくれる訳でもない。私の人生は、この両手で積極的に切り拓き、形作っていくしかないのだ。傍目には無軌道な挑戦のように映じたとしても、今まで私は自分の決断で、困難な選択に答えを出してきた。私は自分自身の切なる願いに対して忠実でありたい。誰かに飼い馴らされる人生は御免だ。どういう境遇に置かれたとしても、私の主人は他ならぬ私自身であるべきなのだ。