サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

百年先も、古びない言葉を

 言葉は、時々刻々と古びていく宿命を背負っている。或いは、言葉は「ナマモノ」であると言い換えることも出来る。単純に語彙や文法が古びて、時代の一般的な通念に合わなくなっていくだけではない。その言葉が発せられた当時には意味のあったことでも、時代の経過と共に読者の需要を失って、誰からも顧みられなくなるというのも、頻々と生じ得る現象である。

 だからこそ、時代を越えて通用する言葉には、凄まじい生命力が宿っていると言える。それは時代の変遷の中で幾度も見捨てられ、忘れ去られながら、何かの拍子に不図、世間の耳目を集めて不死鳥のように甦る場合もある。例えば私は、夏目漱石の文章に現代的な(「現代的」という表現が適切であるかどうかは分からないが)訴求力をありありと感じるが、それらの言葉が綴られたのは百年前の日本なのだ。百年前に語られた言葉が、その古びた措辞の裏側から力強い光を放って、現代に生きる私たちの心に影響を及ぼすというのは、信じ難い現象であると言わねばならない。

 百年の風雪を堪え抜いて猶、生き続ける言葉。漱石に限らずとも、所謂「古典」と称される文章には、生半可な書き手には及びもつかない、絶巓の凄味が備わっている。時代の風俗や、ジャーナリスティックな出来事に触発されて綴られた文章であっても、一流の文章には、そういう皮相な古さが問題にならないほど、力強い叡智が宿っている。

 私は坂口安吾の随筆を愛好しているが、彼が戦後の世相の中で、つまり歴史的な条件に露骨に規定されながら書き殴った「堕落論」が、今でも私の魂に深甚な痕跡を刻み続けるのは何故だろうか。そこに書かれている内容が「普遍的」である為か。だが、この「普遍的」という言葉は便利なラベルである。その内実を厳密に問い始めれば、誰しも定義の難しさに困惑するだろう。坂口安吾が戦後の荒廃した世相の中で、己の実感と信念に基づいて書き上げた「堕落論」の一節ずつが、今も胸に染みるのは、それが人間というものの原型的な本質に届いているからなのだろう。いや、こんな抽象的な表現では、何も伝えたことにはならない。

 例えば最近、転職活動に血道を上げている私にとって、坂口安吾の「風と光と二十の私と」に含まれている次のような文章は、到底他人事とは思われない。

 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音あしおとのひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
 教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。

 (註・青空文庫より転載)

 彼は「やめる」ということに就いて、或いは「正しい希望へのてんからの諦め」に就いて、自分自身の言葉で然り気なく語っている。この言葉を万年筆で原稿用紙の升目に書き付けたとき、私は地上に生を享けてさえいなかった。けれど、彼が書いた言葉は現在の私にとって、生々しい感慨に聞こえる。こういう類の「迷い」は、転職に象徴されるような「どう生きるべきか」という難題に搦め捕られた人間にとって、絶対に他人事では有り得ないのだ。充実感のある仕事を求めてなどと殊勝な決意を語りながら、心の片隅ではもっと高い給与が欲しいとか、もっと休日の多い職場がいいとか、そういう欲望にすっかり鷲掴みにされていたりするのが、人間というものの凡庸な現実である。七十年近く前に、一人の孤独な作家の卵が思い悩んでいた選択の難しさは、私自身が呑み込まれている転職活動の難しさと、本質的な部分では重なり合っている。何と言えばいいのか、どんな問題も深く掘り下げていけば、結局は同じ領域に辿り着くということだろうか。真剣に思い悩み、考え抜いた先に人間の眼に映じる風景は、時代や環境の制約に囚われることなく、共通の地盤に支えられているのかも知れない。そのように考えたとき、古びた書物を繙読することは、見知らぬ人間と魂を共振させることに他ならない。言葉に触れるということ、それは生きる勇気を分かち合うということで、黴の生えた退屈な文章と決め付けて足蹴にするのは賢明な態度ではない。人間の根源的な構造は、そう簡単には変わらない。重要なのは、表層的な相違点に眼を奪われて、秘められた深層の普遍性を見落とさないことだ。

 百年先も古びない言葉を書きつけたとき、その人は作家になる。社会的な肩書は何でもいい。書かれた言葉が人の心を揺さ振り、複雑な波紋を生み出した瞬間、どんな立場の人間でも、作家の精神を総身に帯びているのだ。