サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

それは私の望む道ではない

 夕刻、携帯を開いたら(今どき、携帯を「開く」とは言わないと、以前、妻に笑われたことを思いだす)、先週面接を受けた人材派遣の会社から、不採用を告げる所謂「お祈りメール」が届いていた。 

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 現在の会社に入って十年が経ち、アルバイトの求人広告に応募してくる方々の履歴書を読む機会は無数にあったものの、自分自身が履歴書や職務経歴書の作成に再び手を染めることになるとは、此間までは想像もしていなかった。漠然と転職を夢見るくらいの段階では、そういう実務的なプロセスにまで神経は行き届かないものだ。つまり、その段階では本気で転職を検討していなかったのである。

 落選の通知を受け取った新宿の人材派遣会社に、私としても勤める積りはなかった。だが、此方が断る以前に先方から不採用を通告されてしまうと、少なからず気落ちするのが人情というものだろう。しかも、随分と身勝手な感情の動きだ。働く気もないくせに、望み通り落とされたら不満に思うのだから、我儘としか言いようがない。

 上記のエントリーにも綴ったことだが、私はその日、二社の面接を梯子した。今日、不採用の通知が来たのは二社目の方で、面接を受ける段階で私は既に意気阻喪していた。一社目の面接官から、はっきりと「貴方は営業に向いていないと思う」と言い渡された直後で、気持ちの整理がついていなかった所為もある。自分の転職活動における方針が、根本的に誤っていたのではないかという疑念も、精神的な集中に水を差した。

 西新宿の異様な高層ビル群の迫力に呑まれ、田舎者の私はリングへ上がる前から気後れしていた。不慣れなスーツに身を固め、恐るべき高さのビルへ恐る恐る足を踏み入れる。一階の喫煙所には、百戦錬磨といった風貌の企業戦士たちが蠢いて、不機嫌そうな顔で濛々と紫煙を吐き出している。所定の時刻が近付き、私は静まり返った上層のフロアへ踏み込み、女性のスタッフに案内されて、新宿の街衢が見渡せるガラス張りの個室へ入り、エントリーシートに必要な項目を書き入れながら、面接官の到着を待ち受けた。

 面接を受ける以上は、それらしい受け答えを心掛けよう。実際に勤めるかどうかは別として、内定が取れるように努力するのは大事なことだ。そう思いながらも、実際に面接が始まると、私と先方との温度差や思惑のズレが徐々に露わになっていった。先方は百貨店の地階でサラダを売るという仕事が、どういうものなのか全く理解していなかったし、私の方も、建設業界に労働者を派遣する仕事に関して、具体的なイメージを持っていなかった。リテールと法人営業の違いを乗り越えられるのか、という意味合いの質問に、私は無難な答えを返して済ませた。建築現場への飛び込み営業もあります、抵抗はありませんかと問われ、内心では絶対にそんな仕事は願い下げだと思いつつ、笑顔で、経験はありませんが、抵抗はありません、という何とも表層的な返答で応じた。

 最後に質問はありますか、と聞かれて、私はありませんと答えた。建設業界に関する知識は御持ちではないですよね、と重ねて問われ、私は正直に、詳しくありませんと答えた。要するに先方は、建設業界に就いて何も知らないのに、質問がないとはおかしいじゃないか、と言いたかったのだろう。けれど私は、苛酷なノルマ(先方は迂遠な言い方で、その存在を匂わせていた)を課せられる飛び込み営業を遣る為に、転職活動を思い立った訳ではなかった。採用されたくない、という何とも奇妙な心理状態の出現に、私は抗えなかった。先方も最終的には、消化試合だと感じ始めたかも知れない。私もアルバイトの面接には幾度も携わってきたから、何となく相手の心境の想像はつく。質問はありませんかと問われ、涼しい顔で大丈夫ですと言い放つ人間に、意欲や情熱を見出せないのは当然の話だ。意欲を欠いた三十歳の未経験者に、誰が雇用という投資を行なうだろう。

 そういう投げ遣りな心構えで面接を済ませておきながら、落とされると釈然としない気分になるのは、余りに愚昧な反応だろう。この記事を読んだ方は、こいつは転職活動に本気で向き合っているのか、と不快に思われるかも知れない。だが、私は勿論、真摯に取り組んでいるのである。真摯だからこそ、とりあえず内定が取れればいい、という発想には抵抗を覚えるのだ。とりあえず内定が取れればいい、という考え方は、とりあえず給料が貰えるなら縋りつけばいい、という考え方と同様に不潔である。不潔という言い方が挑発的であるならば、未来がない、将来性がない、展望がない、と言い換えてもいい。その発想に我慢出来るならば、転職を志す意味がない。未来を切り拓く為の一手を打つべく、私は今、恩義のある会社に背を向けて歩き出そうとしているのだ。いい加減な妥協は、此度の転職活動の意義を致命的に損なってしまうだろう。

 改めて思うのは、何かを「選ぶ」ことの難しさである。そもそも内定を取っていないのに「選ぶ」も何もないだろう、という現実的な意見には、とりあえず耳を貸さずに措く。何かを選ぶということは、必然的に何かを捨てるということであり、しかも「未来」を選ぶという行為は常に、失敗と絶望のリスクを伴っている。要するに「博打」だ。無論、前進する為には、今、手許にあるものを捨て去らねばならない。何も代償を支払わずに、より良い未来を手に入れることは不可能である。だからこそ、選ぶことは常に悩ましい。