サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩歌という経験

 私が初めて詩歌らしきものを書いたのは、小学校の国語の授業で詩を書くという課題を与えられたときであり、ノートに幾つも詩を書いて教室で発表することに名状し難い愉悦を感じたことを、今でも懐かしく思い出せる。無論、今から振り返れば随分と稚拙なもので、詩歌というジャンルに固有の韻律や奇抜な発想は微塵もなく、単なる散文の延長でしかなかった。大学生の頃に思い立って、改めて詩作という営為に手を染めるようになり、自分でも驚くほど熱中して、百篇以上も瞬く間に書き上げた。

 原則として散文は、言葉と言葉を論理で繋いでいくものであり、理窟から外れれば忽ち支離滅裂な駄文へ転落しかねない。しかし詩歌は、そのような散文的規約から解放された独特の「自由」を本質的に備えている。シュールレアリスムの作品ほど極端な事例を挙げずとも、普段ならば決して互いに結び付くことのない異質な単語が、特異な語法に基づいて有機的に絡み合い、不可思議な韻律を紡ぎ出し、奏でていくというのが、詩歌というジャンルの特徴である。そこには、散文を書くときには味わえない性質の文学的感興が漲っている。

 詩歌という時空の内部においては、言葉は常に重層的で多義的な構造を形作っている。散文が総てを明確に説明しようとする意志に貫かれているのとは対蹠的に、詩歌という表現の様式は、明確で一義的な「意味」に結実する責務を負っていない。どのような解釈も自由であり、提示される「意味」には無数の余白が添えられている。私たちは様々な個人的「意味」を、その詩的な余白の内側に書き入れて、想像力の翼を極限まで押し開くことが出来る。それは散文の論理性に縛られた魂にとっては紛れもない「恩寵」である。無論、散文においても、詩的な多義性を表現することは不可能ではない。だが、どんなに個人的な文章であったとしても、散文という様式は原則として「社会」の原理と強固な臍帯で結ばれている。それは詩歌の本質的な「孤絶」とは相容れない。散文は常に、そうした個人的な「孤絶」の廃墟の中から、外側の実体的な「社会」に向かって声を上げ、訴え掛けようとする性格を持っているが、詩歌はそれよりも遥かに孤独で、狷介で、単一性に満ちている。