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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「借景」と詩想(言葉の加減乗除)

 所謂「短詩型文学」と称される作品の様式、つまり短歌や俳句など、厳しい字数制限を課せられた詩歌の様式は、その構造として「借景」の効用を活かすことが原則である。「借景」という言葉は主に「作庭」の世界で流通する概念であると認識しているが、詩作の上で言えば、それは何らかの「余白」を活かすことであると言えるかも知れない。この辺りの機微は実に説明が難しいのだが、何とか我流に言葉を尽してみたいと思う。

 造園技法としての「借景」は、それ自体では未完成でありながら、外在的な事物と結び付くことで比類無い芸術的効果を得るような作庭のコンセプトを指している。詩歌も同じことで、特に短詩型文学においては、厳格な字数制限(破調という手法が成立し得るのも、そもそも字数制限が厳然と存在することを前提としている筈だ)が課せられている為に、表現したい対象の総てを言葉に置き換える訳にはいかない。もっと根本的に考えれば、言葉という媒体そのものが成立の当初から、厖大な情報量を離散的な符号へ「縮減する」という性質を持っている以上、言語的な表現というのは本質的に「借景」であることを免かれない。言葉には必ず「余白」があり、「行間」があり、「紙背」がある。これらの「語られない空間」を前提として言葉を結晶させることが、詩歌というジャンルにおいては特に重要な意義を持つ。

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 手前味噌だが、昨晩アップした「除籍謄本」という詩篇は、私自身の離婚経験に基づいて綴ったもので、そこには明瞭に「借景」の作用が息衝いている。詩歌の解説を行なうことが賢明な措置であるかは心許ないが、試みに書いてみたいと思う。

 離婚という経験は、その当事者の社会的な背景や個人的な履歴などによって千変万化するものであり、一概にこういうものだと括ることの難しい固有性を備えている。だから、限られた字数で、出来事の総体を完璧に言い尽くすことは実質的に不可能である。説明的な散文を用いても困難なのだから、詩歌という様式にそうした過重な役割を望むのは御門違いであろう。そのとき、私は何らかの象徴的なポイントを定める。例えば、この詩篇においては「除籍謄本」という具体的な個物が、或る象徴的な「天蓋」の役目を担っている。それを一つの究極的な「焦点」に据えて、附随する様々な思念や情感を具体的な単語や修辞に落とし込んでいくのである。

 だから、この詩篇には一つの「入口」しか記述されていないとも言い得る。直截に「離婚」を説明するような言葉は綴られていないが、「除籍謄本」という堅苦しい形式的な個物のイメージが、離婚という経験の総体を喚起する「留め金」のような機能を背負っているのである。そこには「歌うこと」と「語ること」との本質的な差異が現出しているとも言い得る。「語ること」は文字通り総てを語り尽くそうとする衝動であり、無限に言葉を使役することで表現上の「余白」を拭い去ろうとする積極的な欲望である。四則演算で言えば「加算」と「乗算」の原理に基づいているのだ。しかし、詩歌にはそもそも「総てを語り尽くす」ことへの関心は稀薄である。海外の「長詩」は案外饒舌なのかも知れないが、何れにせよ散文との差異は明白であろうと考えられる(飽く迄も私の個人的で雑駁な思索なので、間違っていても構わない)。詩歌の特徴は「減算」と「除算」にあり、限りなく節約された言葉の中に森羅万象を封じ込めようとする、究極の離散的表現なのである。一つの個物に対して一つの表現を、いや、複数の表現を宛がおうとする「散文」の原理とは対蹠的に、「詩歌」の原理は一つの個物に対して一つの表現さえも惜しむのだ。だからこそ、「借景」という概念が猶更、重要な価値を帯びることになる。

 詩歌は具体的で詳細な説明を好まない。つまり一義的な明晰さとは相容れない。詩的な表現が、比喩や反語を用いて「混濁した」様相を呈する場合が多いのは、一つの表現に複数の指向性を宿さないと「間に合わない」という物理的な制約に由来する部分も多い。「除籍謄本」が「離婚」を喚起するというのは、比較的単純な事例であって、言い換えれば充分に「散文的」な表現であるかも知れない。だが、こういうことは厳密な定義を求めるばかりでは埒が明かないだろう。引き続き、折に触れて考察を深めていきたいと思う。