サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

赤ん坊は、基本的に「前向き」である

 私には生後半年余りになる娘がいる。頗る可愛い女の子である。

saladboze.hatenablog.com

 未だ「赤ん坊」の部類に属すると言って差し支えない彼女を見ていると、色々なことを考えさせられる。今日、仕事の帰り道に、彼女の顔を思い浮かべながら考えたのは「生きる歓び」ということだ。

 赤ん坊は、実に気が散り易い生き物である。そして我慢ということを知らない。だから、気に食わないことがあると、直ぐに喚いたりジタバタしたりする。けれど、不快の原因が取り除かれると、何事もなかったように機嫌を直して遊び始める。つまり、赤ん坊は原則として「上機嫌」で「前向き」な種族なのである。

 彼ら彼女らは、基本的に後先のことなど考えないし、自分の行いを顧みて恥じたり悔やんだりすることもない。もっと根本的なことを言えば、彼ら彼女らは自分が何れ「死ぬ」存在であるということも知らない。無論、大人であっても、自分たちが何れ「死ぬ」存在であるという厳粛な事実を根本的に理解している訳ではなく、あくまでも知識として保持しているに過ぎないのだが、赤ん坊は知識としても有していない。彼ら彼女らは「今ここに存在する不快」に関しては滅法口煩いが、「喉元を過ぎた熱さ」に関しては清々しいほど無頓着である。彼ら彼女らは、過ぎ去ったことを引き摺ったりしない。来るべき悲劇に備えて鬱屈することもない。

 そんな姿を思い出して、頭の中で眺めていると、私の心に「生きる歓び」という言葉が浮かび上がった。娘は、夢中で生きている。生きるということに何の疑問も懐いていないように見える。純然たる「生きる歓び」の中で、日々成長し、新しい世界の扉を開き続けている。そういう彼女を眺めている私も「生きる歓び」を感じている。或いは、教わっているとも言える。彼女は腹が減ったり、眠たいのに眠れなかったり、オムツが濡れて気持ち悪かったり、淋しくて抱っこしてもらいたいのに待たされたり、そういう類の不快が生じない限りは、原則として上機嫌に生きている。生きることの根源は、そういうものだろうと思う。大人になれば、容易く忘れてしまいがちな要諦であるが、生後半年余りの彼女は、その要諦を躰全体で弁えているのである。

 ちなみに、最近このブログのアイコンに採用した画像に映っているのが、件の彼女である。頗る可愛い女の子であることは、一目瞭然であるかと思う。