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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「わたし」を隔てる境界線 細田守「おおかみこどもの雨と雪」

 今日、久し振りに細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」という長篇アニメーションを途中まで見返した。封切りの時に劇場で鑑賞して以来なので、概ね四年振りだろうか。相変わらず、感想は変わらない。紛れもない傑作で、非常に美しいアニメーション作品だと思う。映像も音楽も美しいが、登場するキャラクターの心根も美しい。尤も、美しいという讃辞ばかりを無闇に並べ立てても、何も語ったことにはならないから、もう少し具体的に考えたことを書き留めておきたい。

 この映画のパブリックな主題は「親子」であるらしいが、それ以外にも様々な主題を読み取ることが可能である。そもそも、この作品は単なる甘美なファンタジーには留まらず、現代社会に生きる平均的な日本人が容易く衝突するような性質の「葛藤」や「苦悩」が随所に織り込まれている。細かいことを言えば、子供の夜泣きを隣近所に迷惑がられることであったり、田舎暮らしに憧れて転居してきたのに直ぐに音を上げて立ち去っていく中高年への皮肉であったり、そういう凡庸な現代的要素が当たり前のように画面の端々へ刻まれている。単なる抒情的なファンタジーとして消費することも充分に可能だが、そういう見方では取りこぼすものが多過ぎるのではないかと私は思う。確かに狼と人間のハーフという存在の設定は分かり易いほどにファンタジー的だが、逆に言えば、この作品において超現実的であると言い得る要素は、その一点だけに限られている。それ以外の場面は寧ろ精細なほどに、現代日本社会の風俗を観察して、成る可く写実的に転写している。結局、主題は現実世界、或いは現実の「社会」の構造であり実情であって、一見するとファンタジー的な要素である「おおかみこども」という設定は飽く迄も、この社会の実相をリアルに剔抉する為の「鍵」として導入されたのではないかと感じる。

 その「おおかみこども」という設定にしても、様々な切り口から論じることが可能であろうと思うが、先ず端的に言って重要なのは、雨と雪が成長する過程で否応なしに直面せざるを得ない「アイデンティティ」の問題である。二人は「おおかみこども」であるが故の苦悩を(即ち「狼」としての自己規定と「人間」としての自己規定との間で揺れ動き、何れを選び取るべきか、という問題設定)生きざるを得ない。最終的に姉の雪は「人間」として生きる途を選び、弟の雨は「狼」として生きる途を選ぶ。この「ジャングル・ブック」的なアイデンティティの苦悩は、「人間か、狼か」という非日常的な選択肢として提示されている為に、この社会に横溢している同種の苦悩を、拡大鏡越しに眺めたような認識的効果を発揮している。つまり、この類の「選択の苦悩」は、アニメーションの世界の中で生きる「おおかみこども」たちに限らず、誰にでも生じ得る悩みなのだ。性同一性障害(それを「障害」と称することが適切かどうかは、既に現代の基準においては疑わしい話だろう)、様々な人種の混血であること、そういった諸条件が齎す苦悩は、誰にとっても深刻な主題である。そこまで大袈裟に話を膨らませなくとも、例えば、どの学校へ入るか、どの企業へ就職するか、といった次元の問題に直面した場合でも、アイデンティティの危機が浮上する虞は決して小さくない。人間は自分の所属する組織や場所と、自分自身の存在とを容易に融合させる生物であるから、進学や就職といった「所属の変更」が起きる場合に、己の「自己同一性」の定義を見失ってしまうのは有り触れた事件である。

 もう一つ、この作品において重要なのは「育児」の問題である。現代の日本で「子供を養い、育てる」ということは全く牧歌的な営為ではない。困窮する花の姿を見れば明らかだが、育児に携わることで母親(無論、父親も)が強いられる負担の大きさは深刻である。それは泣きじゃくる子供を夜通し抱っこして慰めることの大変さ、といった次元に留まらない。根本的に、生まれ育つ子供の揺籃となるべき地縁・血縁の崩壊という事象が、物語の前半部で執拗に明示されているのだ。子供が夜泣きしたら、近所の男に怒鳴り込まれる、という簡素な場面が漂わせる「育児の憔悴」のリアリティは、如何にも現代的な「不快」に満ちている。そこから田舎へ転居して、「おおかみこども」である二人に伸び伸びと雪原を駆け回らせるという場面の構成は、如何にも分かり易く凡庸であるには違いない。

 或る意味では、この作品は驚くほど「明快な要素」だけで継ぎ接ぎされていると言えなくもない。訳ありの男との後ろ暗い、しかし歓びに満ちた同棲、不慮の事故死、取り残された子供と母親、都会の孤独と田舎の牧歌的な平穏、自立と葛藤、選択、解放、それぞれの生き方の肯定、こういった諸要素が、現代的な風俗に基づいて丁寧に、精緻な美しさを誇るスクリーンへ刺繍されている。従って、この作品を「凡庸」であると批判することは、誰にでも可能な選択肢である。「凡庸なものを、洗練された技術で表象したに過ぎない」と勿体振って罵ることは極めて簡単なことなのだ。だが、陳腐な事象を一つ一つ丁寧に拾い上げて、あの美しい映像と音楽と整理された物語へ結実させたことが、製作陣の功績であるとも言えるだろう。つまり、この作品は徹底的にカタルシスを追求した「娯楽作品」であって、斬新な視点や考想を提供する高踏的な芸術作品ではない、ということだ。勿論、私は「娯楽作品」というレッテルを蔑称として用いる意思を毫も持ち合わせていない。したり顔で「優れた娯楽」を「失敗した芸術」として批判したがる人々の存在が脳裡を掠めて、少し苛立っただけである。