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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「プラトニズム」と「サディズム」をめぐって 坂口安吾「南風譜」

 最近、岩波文庫の一冊として刊行されている坂口安吾の「桜の森の満開の下・白痴 他十二篇」を途切れ途切れに読み進めている。頭から順番に読み始めて、今は坂口安吾の代表作の一つである「白痴」の半ばに差し掛かっている。

 中学生の頃に、角川文庫から出ていた「堕落論」を偶然書店で買い求め、主にエッセイの集成となっているその一冊を繙いて驚くべき知的興奮と親近感を覚えて以来、私は坂口安吾という破天荒な作家を愛するようになった。

 だが、坂口の偉大で特異な文業を愛すると言いながらも、私は彼の小説の熱心な読者ではなかった。実家の書棚に納められていた貰い物の古い函入りの日本文学全集(新潮社)の中に、無頼派という括りで、彼の小説は檀一雄織田作之助と同居させられていた。確か小学生だった私は「青鬼の褌を洗う女」や「白痴」を拾い読みしたが、何が面白いのかさっぱり掴めず、後に「風と光と二十の私と」を読んで、漸く面白いと感じることに成功した。それでも彼の遺した小説の魅力は、例えば「堕落論」や「日本文化私観」や「不良少年とキリスト」を読んだときに感じた、眩暈のするような暴風の圧力とは比較にならぬほど、微温的なものであった。

 そういう経緯もあって、改めて彼の小説を確りと読み込んでみたい、投げ出した「白痴」や「青鬼の褌を洗う女」も、初見から十数年を閲した今ならば、案外面白く読めるのではないか、少なくとも小学生当時よりは私の読解力も幾らか向上しているに違いないと踏んで、岩波文庫を購った次第である。どんなことでも、思い立ったならば試しに着手してみるのが一番合理的な選択肢である。

 現時点で、私が最も印象深い作品であると感じたのは「南風譜」という、如何にもマイナーな短篇であった。殆ど「掌編」と呼んで差し支えない作品だが、その小さな体躯に漲る「不吉さ」「得体の知れなさ」は、読者の心に不穏な波紋を描き出す。この作品に登場する「私」の友人の妻は「白痴」であるという設定で、これは代表作である「白痴」にも通じる、坂口安吾にとっては生得的に惹き寄せられてしまう主題であり、要素であると言えるだろう。「風と光と二十の私と」に綴られた代用教員時代の追憶にも、下記のような記述が含まれていたので、参考までに引用しておく。

 石津は貧しい家の娘で、その身体にはいっぱいしらみがたかっていた。外の子供がそう云って冷やかす。キリリと怒るような顔になるが、やがて又たわいもない笑い顔になってしまう。善良というよりも愚かという魂が感じられる。読み書きはともかく出来て、中くらいの成績なのだが、人生の行路では、仮名も知らない女よりも処世にうとくて、要するに本当の生長がないような愚な魂がのぞけて見えるのだ。そのくせ、ひどく色っぽい。ただ、それだけだ。
 私は先生をやめるとき、この娘を女中に譲り受けて連れて行こうかと思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙にかれるのだが、これがその現実に於けるはじまりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである。
 私は高貴な女先生の顔はもうその輪郭すらも全く忘れて思い描くよしもないが、この三人の少女の顔は今も生々しく記憶している。石津はオモチャにされ、踏みつけられ、しいたげられても、いつもたわいもなく楽天的なような気がするのだが、むろん現実ではそんな筈はない。虱たかりと云われて、やっぱり一瞬はキリリとまなじりを決するので、踏みしだかれて、路上の馬糞のようにあえいでいる姿も思う。私の予感は当っていて、その後娼家の娼婦に接してみると、こんな風なたわいもない楽天家に屡々しばしばめぐりあったものである。

(「風と光と二十の私と」註・青空文庫より転載)

 安吾という作家は屡々、こうした「愚な魂」に関する執着を示す。精神の未熟と、肉体の成熟とのアンバランスな女体に、強い関心を喚起されるらしいのだ。一方で安吾には、ヒロポンの常用などに見られるような「肉体への軽蔑」も併せて備わっているように感じられる。これらは一見すると矛盾するようだが、重要なのは彼が極端な「精神主義者」であり「プラトニズムの信奉者」であるという点だ。プラトニックな精神主義、それが坂口安吾の「魂」の本質的な組成なのではないかと思う。

 しかし、安吾は決して己の本来的な性向である「プラトニックな精神主義」に無造作に凭れ掛かって自足していた訳ではない。「風と光と二十の私と」で「本当の肉体の生活が始まっていない」若者たちの「老成の実際の空虚」に就いて語った彼が、そのような精神主義への安易な自足に疑問符を突き付けなかった筈がない。実際「風と光と二十の私と」は、過去の精神主義的傾向との訣別を意味していると、解釈することが出来る。肉体の生活を否定し、行雲流水の如く、仏教的な「転迷開悟」の境涯へ達することを志す若年の日々は、後年の安吾にとっては最早無縁の世界であっただろう。

 だが、生得の気質が完全に覆され、塗り替えられる見込みは乏しいのが、世の習いではないだろうか。倫理的な格闘を経て充分に克服されたとしても、つまり理屈の上では過去の精神主義的傾向は批判的に検討され、超克されたとしても、所謂「心情」の部分で、そうした脱却が完璧に成し遂げられたと信じることは困難である。肉体的な破綻を迎えて早世した年譜的事実も、彼の根源的な精神主義の拭い切れなかった残響のように感じられないこともない。

 ただ、そのような己の内なる精神主義的志向との苦闘が、恐らく坂口安吾という特異な個性を形成した強靭な「緊張状態」であったことは、概ね確かなのではないかと私は考えている。恐らく彼の精神は極めて潔癖で倫理的に厳格だが、だからこそ「本当の肉体の生活」が始まって以来の悪戦苦闘は深刻の度合を高めたのだ。その微妙な相剋、何とも不安定な宙吊りの格闘の過程で、彼の眼に「白痴」という観念が重大な意義を伴って映じたのであろう。この場合の「白痴」という言葉は、角度を変えて眺めるならば「無垢」ということに他ならない。無論、この場合の「無垢」という要素は、倫理的な潔癖さを意味するものではない。寧ろ、如何なる倫理も成立し得ない、精神的な衰弱の形態を指している。強烈な精神主義の衝迫に苛まれていた安吾にとって、そのような「白痴」の存在は、精神主義に対する根本的な否認の体現であると考えられたのではないか。

 「霊」と「肉」との根源的な不均衡、潔癖過ぎる倫理的修養主義と、獰猛過ぎる肉体的な欲望との狭間に立たされ、悪戦苦闘を重ねた男の軌跡が、安吾の遺した厖大な文業には刻み込まれている。そして、彼の眼に「白痴」という一つの観念が黙過し難い存在感と重要性を以て迫るのは、それが「精神主義的なものの露骨な否定と破壊」であるからではないかと思う。言い換えれば、それはサディズム的な欲望である。

 私の考えでは、サディズム的な欲望が目指すのは、個人の固有性の破壊である。別の言い方を用いるなら、或る人間の「精神を肉体に還元してしまうこと」である。小説「白痴」において、白痴の女性が担った対象としての役割は、小説「南風譜」においては「木彫の地蔵」に課せられていると言い得る。

 私はかつてこのやうな地蔵を、鎌倉の国宝館と京都の博物館でのみ見た覚えがあります。これも恐らく鎌倉時代の作でせう。なんとまた女性的な、むしろ現実の女体には恐らく決して有りうべくもない情感と秘密に富んだ肢体でせうか。現実の快楽けらくを禁じられた人々の脳裡には、妄想の翼によつて、妄想のみが達しうる特殊な現実が宿ります。その現実を夢とよぶ人もあるのでした。そしてそれらの人々の脳裡に宿つた現実に比べたなら、地上の快楽はなんとまた貧しく、秘密なく、あまつさへ幻滅に富むものでありませうか。ひたすら妄想に身を焼きこがした人々が、やがてこれらの仏像のやうに、汲めども尽きぬ快楽と秘密をたきこめた微妙な肉体を創りだすこともできるのでした。老齢なほ妄念の衰へを知らず、殺気をこめて鑿を揮ふ老僧を思ひ泛べずにゐられません。

(「南風譜」註・青空文庫より転載)

 魂を欠いた木彫りの仏像が「精神を奪われた肉体」の間接的な表象であるという見方は、それほど強引な理路に則っている訳ではないと私は思う。そのような「仏像」に強烈な性的魅惑を見出すのは明らかに、仏像の側の責任ではなく、仏像を眺める「私」の側の問題であろう。「精神を持たない純然たる肉体」に性的欲望を喚起されるのは、サディズム的な主体に固有の性癖であると言える。「白痴」に肉欲を覚えるのも、象徴的な次元で捉えるならば、同様にサディズム的な現象であると考えられる。それは「魂を破壊することへの欲望」であり、個人の精神性に対する暴力的な攻撃の形式である。

 こうした欲望に忠実であるだけならば、坂口安吾の文業は、一介の血腥いサディスト以上の芸術的価値を持たなかっただろう。しかし、彼の存在がユニークであるのは、そうしたサディズム的な欲望が、自己の内なるプラトニズム的性向への内攻的な敵意に由来するものであるからだ、というのが私の妄想的な仮説の公式である。彼は極端にプラトニックな精神主義を、少なくとも若年期の代用教員時代には濃厚に備えていた。プラトニックな精神主義は、具体的な現実との生々しい交渉を排除し、抽象的な夢想へ人心を誘う。実際、坂口安吾は過度な理想主義を持て余して、鬱病に苦しんだ時期も有しているのである。鬱病は、抽象的な次元から眺めるなら、理想的な自我と現実的な自我との度し難い落差に堪えかねるところから発症する。言い換えるならば「理想主義の宿痾」である(私自身は鬱病に罹患した覚えがないので、実際に苦しんでおられる方から見れば半可通の戯言に聞こえるだろうが、どうか御容赦願いたい)。プラトニズムは理想=イデアを信奉する存在の形式であるから、不条理極まりない地上の現実とは相性が悪い。「白痴」や「仏像」は、そうしたプラトニックな性向とは対極の地点に位置する形象であり、観念である。「精神」に比べれば「肉体」は遥かに「現実」の制約を受け易い。「精神=幻想」と「肉体=現実」の等式は、二元論的な対を成す。安吾の特異性は、両者の極端な緊張関係を自ら生き抜いた点に存するのではないか。極めてプラトニックな理想主義と、野蛮な肉体的現実主義との相剋を、一個の人間が抱え込むのは畏怖すべき苦悩の温床である。私はそうした苦悩の軌跡に魅惑されているのだろうか?

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)