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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

迷いが生じると、途端にグダグダになる男の弁論

思索

 生きていると、自分自身との付き合いも段々と長くなっていく訳で、しかも色々と新しい経験を積んだり、今まで味わったことのない場面に遭遇したりすることを繰り返すうちに、それまで知らなかった自分の側面というものを発見する機会も増えていく。そうやって少しずつ自分自身の人間性を「学習」していくのが、生きるということなのだろう。

 勿論、人間の性格は後天的な環境との関わり合いの中で不断に遷移していくもので、新しく発見した積りの自己認識があっという間に過去の遺物へ様変わりする場合もある。しかし、そういう要素というのは完全に消え去ったというよりも、有機的な複合体としての「自己」の何処かに沈潜してしまっただけなのではないかと感じる。その都度、社会と接する表層的な部分に、どのような要素が色濃く反映されるかということは変化していくものなのだ。

 だが、それでも長く付き合ううちに本質的な傾向性みたいなものは徐々に輪郭を確かなものにしていく。どういう局面を踏み越え、どのような経験を潜り抜けたとしても、相変わらず堅牢に持続し続ける不変の特性のようなものがあって、それを人は「魂」と呼んでいるのかも知れない。

 私の勤め先は食品の小売業で、そういう世界では十二月後半から年明けにかけての時期が、年間で最大の繁忙期となる。クリスマスや年末年始は、日本中で多種多様なパーティが開かれ、家族や友人で集まって美味しい食べ物を分かち合う機会が飛躍的に増える。忘年会や御用納めの需要もある。百貨店ならば歳暮や年賀の買い物客も増える。だから、私たちは十月くらいから、年末商戦に向けて品揃えやワークスケジュールやらの準備に忙殺されるのである。

 今日は朝から本部へ出向いて、十二月後半の商品計画の策定に従事した。結構、時間と労力を要する作業なのだが、集中して取り組んでみたら、案外あっさりと目途が立った。午後七時くらいにオフィスを出るときも、他の店長たちは大半が仕事を続けていて、どうせ今日中には終わらないから、別の日に続きを遣ろうと諦め、潔く帰っていく人も疎らながら存在した。

 未だ他にも遣るべき業務は山積しているのだが、最低限のノルマはクリアしたので、私はさっさと家路に就いた。つい此間までは、この年末商戦の準備を心の底から億劫に感じていたのに、転職活動を取り止めて一旦、現職に本腰を入れると決めてからは、過日の煩悶が嘘のように遠退き、目下の業務に夢中で打ち込むようになったのだから、我ながら呆れてしまう。上長の前で涙を流しながら退職の相談をしてから、未だ半月ほどしか経っていないのに、驚くべき鮮烈な変貌である。一体、自分が何を悩んでいたのか、そのリアルな実感が鮮明に思い出せないほど、私の頭の中は前を向いている。

 恐らく、そういう性格なのだろうと思う。私は昔から凝り性な部分と怠慢な部分が同居していて、しかも針が直ぐに振り切れるタイプの人間である。覚悟が固まれば思い切って突き進めるのだが、迷いが生じると、その迷いを徹底的に問い詰めて突き抜けてしまわない限り、なかなか眼前の遣るべきことに意識を向けられないのだ。オール・オア・ナッシングという奴である。転職活動中は、自分の方針が絶えず揺れ動いていたので、考えが日々目紛しく移り変わり、何処に向かって走ればいいのかも分からず、悶々として、パフォーマンスが著しく悪化していた。ところが、今の仕事にもう一度向き合おうと肚を括った途端に、一挙に頭が回り始め、発想力や思考力、行動力が恢復し始めたのだ。何とも難儀な性格ではあるが、そういう人間であることを自覚した上で、自分なりに生きる為の方法や流儀を編み出すしかないだろう。

 もっと器用に、軽やかに切り替えられるなら、その方が良いに決まっている。柔軟に物事を捉え、仮面を上手に使い分けて、社会の荒波を巧みに泳ぎ回っていけばいい。しかし、根っからの蠍座気質なのか(占星術的に眺めれば、私は太陽星座が蠍、月星座が獅子という筋金入りの不動宮人間なのである)、そういう悧巧な渡世の方法が身に着かないし、余り好みでもない。中途半端が嫌いなので、遣れると思ったことには夢中になって取り組む半面、出来そうもないと諦めたことに関しては頑迷なほどに挑戦を渋る悪癖を抱えている。機関銃ではなく、鈍重な台座付きの大砲である。

 元気が良い時ほど、自分の流儀に対する拘りが強まり、俺はこの途を往くのだという気合が高ぶるので、人の意見に耳を貸したり、譲歩したりすることが途端に苦手になる。しかし、元気が湧かず、自分の方針に自信が持てない場合には、人が変わったように他人の言葉に振り回されたり、右顧左眄したりするようになる。外部に正解を求め、自分の下した判断にあらゆる角度から疑問符を附してしまう。雇用者から見れば、随分と使い勝手の悪い社員ということになるだろう。

 単に労働ということに限らず、こういう分裂的な要素が色濃いと、余計な苦労を抱え込み易いのではないかと思う。顧みれば、今までの人生も極端な振幅を描いているというか、一旦こうだと思い込んだ途には脇目も振らず邁進し、誰に何を言われても揺らがないのだが、結果的に袋小路へ追い詰められて、無様にも精神を飛散させ、他人の助けや慈悲に縋りつくという、何とも統制し難い軌跡を描いているのである。こういう人間が快活に生きる為には先ず、覚悟を固めるということ、自分の正義を信じるということ、その上で他者の言い分に対する寛容さを保つということが、重要な意義を帯びるだろう。経験上、自分に自信が持てない時期には、他人の意見や価値観に対して寛容に振舞うことが難しくなる。自分の正義を信じるからこそ、他人の正義も尊重出来るというのが、私の心理的なパターンなのかも知れない。

 一から十まで個人的な内省の文章となった。まあ、このブログ全体が私的な内省の集積に過ぎないと言えば、その通りなのだが。