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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

それを「愛」と呼ぶことは難しい 坂口安吾「白痴」

 先日、坂口安吾の「白痴」を読み終えた。

 古い小説で、太平洋戦争の記憶が明瞭に刻み込まれた小説であると同時に、表題も含めて、現代に書かれたとしたら、色々な方面から批判を浴びそうな仕上がりである。白痴の女性を「豚」と表現する辺り、当時は許容されたのかも知れないが、今の社会的環境なら即座に摘発されるだろう。

 だが、文学作品というものは多かれ少なかれ「反時代性」を宿していなければ意味がない、というのは極論だとしても、時代の風潮に迎合し、口当たりの良さばかりを猛然と追求し続けるハーゲンダッツ的な価値観ばかりが正しいと認められるのは余りに偏狭な話である。読む人が読めば不快極まりない、嘔気を催すような作品であったとしても、それが世の中の倫理的な規範に真っ向から抵触するような内容であったとしても、芸術には独自の地位や権威が認められるべきである。何故なら、芸術とは社会の通弊に「風穴を穿つ」役割を担っているものだからだ。

 文学は反時代性を帯びていなければならない、という考え方自体が、馬鹿馬鹿しいほど保守的な「文学性」に過ぎない、という立論も有り得るだろう。文学などと大仰に言い立ててみたところで、結局は言葉を通じて顧客を愉しませることが目的の「サービス業」に過ぎないのだから、読者の欲望を綿密にマーケティングして、得られた情報に基づいて「読者が欲しがるものを提供する」ことこそ、文学業界の崇高な使命だと言い放つことは、昨今の社会的風土においては決して難しいことではない。寧ろ、資本主義社会の風潮に対する「便乗」に過ぎないと言い切って差し支えない。しかし、文学が商品として流通していることと、文学そのものが太古の昔から担ってきた社会的意義との間に、完全なる等号を想定する義理はないのである。ミネラルウォーターが商材になり、森林や土地が不動産として売買されるからといって、水や森林や土地を「商品」以外の何物でもないと断言するのが如何に奇妙な話か、少し考えてみれば分かるだろう。「商品」というのは一つの「価値」の形態であり、物品そのものに内在する性質ではない。それは或る事物の有する社会的関係の様式の一種でしかないのだ。その簡明な真理を閑却して、何でもかんでもビジネスの語法で論じるのは視野が狭いし、品格に欠ける振舞いだと私は思う。

 つまり、文学として作り出された個々の具体的な作品が、商業的な収支の観点から、その価値を判定されねばならない理由は存在しないのである。厳密には、存在しないと言うより、そうした観点を必要とするのは「文学作品を売る」ことで生計を立てている一部の特殊な人々だけなのだ。だから、読者が文学の価値を計量するに当たって「売上」や「部数」を参照する必要は微塵も存在しない。もっと先鋭的に言えば、文学作品が「売れる」必要自体、別に存在していないのである。売れようが売れまいが、文学の価値は「或る特定の人間の精神を揺さ振る」ことだけで充分に証明される。表現するということは訴えるということであり、誰かの心に直に語り掛けるということだ。その奇蹟的な接続が局地的にでも達成されたならば、その作品が商業的な利益を連れてくるかどうかは些末な問題に過ぎないのである。

 坂口安吾の「白痴」が、現代の社会において容易く許容される作品であるとは、私には思えない。端的に言って、この作品は万人が泣いて歓ぶような分かり易い娯楽性とは無縁である。物語もそれほど起伏に富んでいる訳ではないし、文章も流麗とは言い難い。寧ろ文法的に考えれば「破格」としか言いようのない部分も随所に埋め込まれている。徴兵逃れの為に映画会社へ勤めて、戦意浮揚の国策映画の製作に不満を滾らせながらも、目先の給与の為に節を折っている凡庸な男が、近所の白痴の女を匿い、空襲で焼け出されて逃げ惑うというだけの陰気な話に、戦争を経験したことのない大多数の現代人が身につまされるような想いを喚起される見込みは乏しいだろう。白痴の女、という坂口安吾にとっては重要なイデアも、その表現の仕方に道徳的な嫌悪を覚える人も少なくないに違いない。

 だが、巨大な災害、勿論「戦争」も含めて、自分の力ではどうにも動かしようのない強制的な力に翻弄されるとき、人間がどのような心境に陥るのか、そうした「有事のニヒリズム」を実感させるのに、この「白痴」という作品が適役であることは間違いないと私は思う。尤も、こうした感想は、戦争を知らない平均的な日本人である私の当て推量に過ぎない。実際に戦場へ赴けば「有事のニヒリズム」などという観念的な言辞を弄して悦に入ることなど不可能だろう。しかし、戦争を知らないから戦争文学を読んでも無益である、という実利的な論理に、私は賛同したくないし、する必要もないと考えている。

 伊沢は女が欲しかった。女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の咒文じゅもんを負い、二百円の咒文にかれた子供が生まれ、女がまるで手先のように咒文に憑かれた鬼と化して日々ブツブツ呟いている。胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれて飛びちり跡形もなくなって行く。爪の跡すら、なくなって行く。女の背にはそういう咒文がからみついているのであった。やりきれない卑小な生活だった。彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙奇天烈きてれつな公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなるとむしろ生き生きしてゲートルをまくのであった。生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。(「白痴」註・青空文庫より転載)

 「虚無のなんという切ない巨大な愛情」という表現は、如何にも坂口安吾的な修辞だと感じる。彼は「空虚」という精神的な問題に関して、実に執拗に考え続けた作家なのだ。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫ほうまつのような虚しい幻影にすぎないという気持がする。(「堕落論」註・青空文庫より転載)

 戦争のような巨大な破壊が「人間的なもの」の死滅を齎すことを、彼は自分自身の生々しい体験を通じて学び、鋭い省察の対象としていた。恐らく彼の本来的な気質は「戦争」という巨大な「虚無」に親和的なものであったのだ。しかし、戦後の彼の文学的な再出発は寧ろ、そのような「虚無への充足」を否定するところから始まった。彼の「堕落」という言葉は、何も考えずに無機物のような充足の深淵へ埋没している人間の「快楽」の否定を意味している。彼は「苦しむことが、人間であること」だと信じていた。生半可な幸福論など、彼には通用しない。そうした頑迷な潔癖さが、私にとっては清冽な手本のように思われ、どうしても彼の粗野な言葉に酩酊せずにはいられないのである。

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

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