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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

N君の想い出

 何とはなしに、漠然と思い出したことがあるので書き留めておく。

 生後七箇月になる娘は、日々元気に動き回り、口の中には小さな乳歯の萌芽のようなものも見え始め、刻々と成長しつつあるということが実感として明瞭に迫ってくる。小さな躰、大人から見れば本当に華奢で頼りない肉体が、少しずつ力強くなり、床を這い回る速度も、躰の扱い方そのものも、着実に上達しつつある。そういう彼女の姿を目の当たりにすることは紛れもない歓喜であり、愉楽である。

 今はもう一緒に暮らしていないが、私には前妻との間に息子がいて、今年の春先に十歳の誕生日を迎えた。彼が幼かった頃の記憶は途切れ途切れに、いわば「断簡」のように海馬の中へ蓄えられているが、古い写真に映じた彼と、小学生になった彼との間には、眩暈を覚えるような落差が介在している。つまり、それくらい子供というのは凄まじい変化の過程を生きているということだ。

 そんな子供たちも、あっという間に大人へ姿を変えるだろう。昔の面影が思い出せないくらいに、猛烈な変貌を繰り返して全く異質な存在に化けてしまうだろう。それは一抹の淋しさを呼び起こす考えだが、幾ら赤児の笑顔が愛らしいからと言って、彼ら・彼女らを永久に赤児の姿へ留めて、冷凍保存しておく訳にはいかない。どれほど素敵で可愛らしくても、子供は人形ではなく、一個の独立した「人間」であるから、成長も衰退も彼ら・彼女らの権利である。そうした理窟を踏まえてみると、親心としては、子供が健やかに育って行ってくれるか、恙なく幸せな生涯を送ってくれるか、希望と不安の入り混じった名状し難い情念を懐かずにはいられない。遅かれ早かれ、親子の臍帯は途切れるものと冷酷に定められているのだから、彼ら・彼女らの人生の終末に至るまで、私が責任を肩代わりし続けてやることは不可能だ。そうやって考え出すと、不安の種は尽きることがない。無論、同時に歓びの種も、無尽蔵には違いないが。

 私が小学生の頃、N君という友人がいた。詳しい経緯は、もうはっきりとは思い出せないのだが、彼は片脚が義足であった。いや、当初は義足ではなかったような記憶もある。夏休み、彼の暮らす団地の階段や廊下を走り回って、水鉄砲で遊んだ記憶も残っているからだ。事故に遭ったのか、病気に罹ったのか、それさえ今では曖昧である。彼は歩行が難儀で、学校にはタクシーで通っていた。階段の昇降が不自由なので、日直の級友が彼を正門まで迎えに行き、教室まで鞄を運んであげるのが、私たちのクラスのルールであった。しかし、小学生だから直ぐに遊ぶことに夢中になって、当番を忘れてしまうことも珍しくなかった。そんなとき、彼は独りで鞄を背負って、不自由な躰を引き摺って、教室へ向かうのである。そのときの彼の心情が、どのようなものだったか、幼い心に、それは屈辱や寂寥を齎しただろうと、今更のように思う。

 私は一時期、彼に非常に気に入られて、夏休みには毎日家へ遊びに来るように誘われた。小学校から中学校にかけて、私は幾度か、特定の級友から、そのような熱烈な好かれ方をすることがあり、終いには嫌気が差してしまうのが常であった。尤も、そのような蜜月は毎度、長く持続することはなく、終生の友誼には程遠いものであった。或る期間、集中的に気に入られ、毎日でも家に誘われて遊ぶのだが、一定の期間が過ぎると、掌を返したように先方から愛想を尽かされ、急激に疎遠になるのが、そのような種類の友情の常道であった。考えてみれば、不思議な現象である。まるで使い捨てのカイロのような気分である。

 そのような熱烈な友人を、小学校から中学校にかけて、私は三人持った。改めて顧みると、その三人は皆一様に、片親の家庭に育っていた。訣別の理由は知らないが、N君の場合は父子家庭で、他の二人は母子家庭であった。私自身、今は実の息子を実質的に母子家庭の児童として生きさせている訳で、こういう記憶を遡るのは罪責の痛みを伴う行為でもあるのだが、自己憐憫の甘ったるい誘惑に浸ろうという目算がある訳ではないことは、明瞭に断言しておきたい。熱烈な友人たちが、私という人間に何かしら「淋しさ」の埋め合わせのようなものを求めていたことは、事実ではないかと思う。明瞭な根拠はないが、片親の家庭に育った子たちの独特の寂寥を和らげるのに、私の人格に含まれる何らかの要素が有効な薬理成分を発揮したのではないだろうか。

 彼らの気に入り方の熱烈さと極端さは、彼らの生まれ育った環境と関わりがあるのだろうか。こういうことを書くと、両親の揃っていない家庭に生まれた子を差別するように聞こえるかも知れないが、そんな意志は毛頭ない。私が離婚するとき、父親は子供への悪影響を声高に語った。離婚の悪影響を蒙った子供は、どんな教育を与えても駄目になると父親は断言し、その言種に私は激昂した。私に激昂する権利があったのかどうか疑わしいが、少なくとも、離婚した親の子供は不幸が約束されている、という言い方には、父母が雁首を揃えていることが当然の家庭に生まれ育った人間の「驕り」ではないかと、私は感じた。無論、別の角度から眺めれば、父親の論理を受け容れることはそのまま、息子に対する私の「罪悪」を絶対化することになるので、憤激したに過ぎないと、当時の心境を要約することも可能である。親が離婚しても、子供が絶対的な不幸を背負うとは限らないという理窟を正しいと認めない限り、私は私の新たな人生を選ぶことが出来なかったのだ。その意味では、往時の私の激昂は、私の血塗られたエゴイズムの傍証である。

 皆が当たり前のように与えられているものを与えられない子供が、その与えられないものに強烈な憧憬を滾らせたり、却って猛烈な憎悪を持ったりする心理は、それほど難解なものでも、稀少なものでもないだろう。三人の級友は、何らかの隔たりを懼れるかのように、熱心に私と遊びたがり、時期が過ぎると、容赦なく立ち去っていった。愛人止まりの女性のような境涯に、当時の私は据え置かれていた。淋しさもあったが、過剰な親密さの齎す煩わしさから解放された爽快感もあった。大体、そういう極端な距離感の人間関係は、子供と雖も息苦しいものだ。中学校への通学路を歩きながら、今日こそは彼奴を邪険にしないように気を付けようと思う。しかし、いざ熱心に付き纏われると、苛立ってしまう。冷然と距離を開こうとしてしまう。

 松戸市へ引っ越して以来、N君のことは何も知らない。彼に限らず、私は大阪の旧友たちと全く音信不通である。結局のところ、私は必然性のない人間関係が苦手なのかも知れない。昔の誼だけでは、人生は充実しないと考えているのだろうか。どうやら確かではないかと思われるのは、私は友情を踏み躙ってでも愛情を選びたい種別の人間であるらしい、という自己省察だけである。