サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

商売の根本は「売れないこと」である

 私は二十歳の時からずっと小売業の現場で食品を取り扱って飯を食ってきた。けれど、そうやって商売で給与を稼いで家族を養ったり家を買ったり、その他様々の雑多な支出に金を費やしたり出来るのは、つまり曲がりなりにも私が商売人としての渡世を営んでいられるのは、私の純粋な実力の産物ではなく、四十数年間、会社が積み重ねてきた看板に対する信用の御蔭である。諸先輩が築き上げてきた実績や、顧客から勝ち得た信頼の累積の上に、現在の会社の競争力は成り立っている訳で、それを総て差し引いて自分の独力で商いを始めたとしても、早晩行き詰まることは火を見るより明らかだ。

 私の会社は自社で企画した商品を自社で製造し、主に直営の店舗で販売している。そういった会社の仕組みがなければ、私のような一般の社員は店を開けて営業することさえ儘ならない。他人が長い時間と夥しい労力を費やして少しずつ拵えてきた巨大な機構の上に便乗して、顧客から商品とサービスの対価を頂戴している訳である。私個人の力量では、一品のサラダさえ生み出すことは出来ない。レタスを千切ってドレッシングを振りかけたら、直ちに顧客の財布の紐が緩むということは有り得ない。

 けれど、会社の過去の実績と、築き上げた信頼の御蔭で、私の任されている店舗には毎日、数百名の顧客が足を運んで金銭を落としてくれる。特段の労力を支払わずとも、一定の水準の売上は日々、自動的に計上される。私の役目は、そのような商売の仕組みを創意工夫によって最大限に効率化し、更なる売上と収益の上積みを目指すことだ。しかし、その使命は私自身が独力で創造したものではなく、あくまでも被雇用者として会社から宛がわれたものである。会社の存在を抜きにして、私が店を開いたり数百名の顧客に恵まれたりすることは有り得ない。このように、理窟の上では充分に承知している積りであっても、実感は異なる。事前に約束した訳でもないのに一定数の赤の他人が、自分の店舗を訪れて商品を購入し、立ち去っていく。そうしたことが日常化していると、売上というものが知らぬ間に、外在的な客体のように思われてくるのだ。私自身の思惑や努力とは無関係に、自動的に成立し、計上される「売上」。だが、そんなものは幻想に過ぎない。色々な外的与件に喚起された需要に、飼葉を宛がうような手つきで商品を押し込むだけで、自分が何か偉大な成果を積み上げているように考えるのは、愚昧な驕慢に過ぎないのだ。

 本来、何かを「売る」ということは、無から有を作り出すのにも等しい、困難な営為である。単に右から左へ品物を動かせば済むような話ではない。何もかも自分で実際に引き受けて取り組んでみた場合のことを想像すれば、その恐るべき難易度の高さは骨身に沁みるだろう。誰にも知られず、誰にも評価されていない商材を、金銭を頂戴して誰かに譲り渡すという「取引」の奇蹟的な性格は、小売に限らず、ビジネスに携わる総ての人々にとって、無関心で済ませられる他人事ではない筈だ。

 私は店長だから、売上と収益を最大化することが一番重要な役割であり、使命である。顧客は気紛れな生き物だから、必ずしもこちらの思惑通りには動いてくれない。彼らの関心を惹き寄せ、商品の価値を認めさせ、財布を開かせる為には、色々な工夫が要る。しかも、その工夫は一旦成功したとしても速やかに陳腐化するのが通例であり、永遠に活用し続けられる方法は何処にも存在しない。要するに、商売の根本にある感覚というのは「売れない」という冷酷な現実の認識なのだ。何かが売れるということは本来、奇蹟に等しいのであり、幾ら店頭へ顧客が鈴生りに群がっていたとしても、それは「売れること」の不変性を決して約束しない。本当は全く売れなくても不思議ではないものが、様々な要因の堆積の結果として、偶然にも「売れている」だけなのだ。その厳粛な事実に仕事の基礎を据えなければ、商売は途端に回らなくなり、受動と惰性が総てを凌駕してしまう。つまり、何かが売れるという厳粛な事実が「他人事」のように遠く感じられるようになる。こうした「手応え」の欠如は、小売の仕事を機械的な作業へ変貌させてしまう。いや、厳密には小売に限らない。法人営業の世界でも理窟の構造は同じであろう。何かが「売れる」のは、当たり前の現象ではない。絶えざる創意工夫と、誠実な努力の結果としてのみ、私たちの使うレジスターは「売上」を記録することが出来るのである。