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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

寺田寅彦の「父性」

 最近、断続的に「寺田寅彦セレクション1」(講談社文芸文庫)を読んでいる。著名な物理学者であると同時に、夏目漱石に師事した名文家としても知られる寺田寅彦の文章には、現代の平均的な日本人には綴り得ないであろうと思われる、独特の芳香と滋味が沈潜している。措辞は若干古びているが、その古さが却って香ばしく、奥深い。

 こうした香ばしさは、夏目漱石の小説や随筆から感じられる手触りと似通っていて、それは寺田寅彦漱石に師事していたという直接的な原因に由来するとは限らないのではないかという気がする。明晰な根拠が存する訳ではないが、ここには「明治」という時代に生き、真新しい文章語を作り上げながら自らの思想と信条を練り上げた人々に共通する「手触り」があるという風に感じられるのである。

 同時に私は、漱石や寅彦の有する人間的な風格に関しても、その熟成された、奥行きのある思想や価値観に就いても、名状し難い感慨を懐かずにはいられない。彼らの書き遺した文章には深甚な人生の経験と、そこから導き出された稠密で行き届いた省察がありありと輝いているが、漱石は四十九歳、寅彦は五十七歳で亡くなっている。文章から伝わる人間としての貫禄を思えば、彼らが現代の感覚では「早世」に等しい年齢で他界しているという歴史的事実は、私を面食らわせる。年齢に比して、彼らが到達した境涯の奥深さと磨き抜かれた熟成、いや、磨き抜かれたというよりも、厳粛な世界の真実に対して正面から向き合った人間だけに許される豊饒な「屈折」の深さは、成熟という理念の意義が年々暴落を続けているように見える現代の感覚では、到底信じ難い一種の奇蹟のように感じられる。

 彼らは明瞭な、或いは露骨な「父性」の体現者である。寅彦の随筆に屡々、子供たちに関する記述が現れることだけが理由ではない。文章に刻み込まれた様々な思念や感覚、過ぎ去った日々を思い返す手つきには、色々な苦難を乗り越えて、現在の場所に佇立している男の苦悩の深さと、思索の粘り強さが息衝いている。多くの苦悩を経由することで厳しく鍛造された男の風格が、否応なしに「父親であること」の貫禄に結び付いて見えるのだ。

 私自身、二十歳の時に前妻との間に長男坊を儲け、今年の春には現在の妻との間に娘が生まれた。子供たちはこれから様々な選択肢の間で思い悩み、引き返すことの許されない分水嶺に差し掛かって立ち竦みながら、それぞれの人生を何十年も費やして歩んでいく訳だが、果たして自分が彼らの「導師」に相応しい人間的な叡智を培えているかどうか、甚だ心許ないというのが率直な感想である。人の親になるということは、単に子供を持ったとか、数十年の先輩であるとか、そういった表層的な事実によっては保証されない。ロクデナシの親父は、この世界に星屑よりも数多く氾濫している。私がそうした残念な実例の一翼を担わないとも限らない。人並みの苦労ならば踏み越えてきたが、それが子供たちの成長と成熟の助けになるかどうかは分からない。自ら成長し続けることで、小さな彼らを堂々と導いて行ける成熟した人間になりたいと思う。無論、それは死に至るまで私を縛り続ける呪詛のような規矩であるに違いない。

 

寺田寅彦セレクション1 (講談社文芸文庫)

寺田寅彦セレクション1 (講談社文芸文庫)