サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

遠く掠れた記憶のなかの文学的断想 ジュンパ・ラヒリ「その名にちなんで」

 ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」を読んだのは、もう何年も昔の話で、細かい描写や具体的な筋書きは殆ど記憶していない。インドという国家・風土にルーツを持つ移民の息子が、アメリカという大地で自分の人生を慎重に、誠実に織り上げていく地味な物語だったという記憶が、辛うじて消え残っている。丁寧で仄かなユーモアに満ちた文章で、とても静かに紡ぎ出されていくゴーゴリの生涯は、何とも言えぬ美しさを湛えている。尤も、その美しさは輝ける栄誉の光に照らし出されている訳でもなく、受け継いだ文化と、新しく受け容れる文化の狭間で足掻き、思い悩む青年の葛藤が、それほど斬新な発見を私たちに与えるとも言い切れない。アメリカは固より、移民の国であり、多様な文化と民族的な伝統が混在する社会である。そこでは、移民の苦悩というものは星屑よりも数多く散らばり、それぞれに瞬き、時には潰えたり明るく燃え盛ったりしているだろう。ラヒリが慎重に描き出したゴーゴリの人生は、そういう幾多の光点の中の慎ましい一例でしかないと、言えなくもない。その意味では、この小説にスリリングな歓喜や悲愴を求めるのは的外れであり、そういう強烈な情動の刺激を欲する読者にとっては、つまり蒸留酒の焼け付くような焔の魅惑を望む人にとっては、ラヒリの「その名にちなんで」は透き通った紅茶のように物足りないに違いない。

 だが、ハリウッド映画のような刺激的な娯楽大作ばかりを欲するのは、精神的な不健康さの証明であると私は言いたい。ハリウッド映画、という粗暴な括りを選ぶのが下品な、或いは粗野な振舞いであることは承知しているが、一部のハリウッド的娯楽大作の清々しいほどの内省の欠如は、つまり娯楽性だけを追求したような商業的プラグマティズムは、束の間のサプリメントのようなもので、人間の血肉を作り上げる正統な原料であるとは言い難い。神経を鑢で削り取るように難解な問題を蒸発させる作品には、ラヒリの小説に滲んでいる文学的な滋味の芳醇な舌触りは期待し得ない。善悪の黒白を明確に定め、使い古されたパターンに予てから効果的であると認められた意匠を付け加え、いわば単純な論法でカタルシスを惹起することだけを狙って仕立てられたエンターテイメントには、束の間の鎮静剤のような効果しか発揮出来ないのだ。そこには文学的な、つまり人間的な内省や思索の深みは欠片もない。尤もらしい「苦悩」や「葛藤」は大いに取り入れられているが、それは真に葛藤の暗闇を突破する為の独創的な光明を発案する為ではなく、単にその場面において「葛藤」という要素がドラマツルギーの都合上、便宜的に要請されているからに過ぎない。だから、そこには真の意味でのユーモアも、琴線に触れる人間的な省察も、強靭な知性と魂も、原理的に存在し得ないのだ。

 だが、人間という厄介な生き物の存在の様態に関する誠実な省察、粘り強い思索を通じた経験的知見の敷衍、そういった手続きだけが、私たちの魂を成長させ、進化させる唯一の手立てなのだ。単に純然たる絵空事や奇想を羅列しただけで、文学というジャンルが私たちの人生に有益な効用を齎すとは考え難い。無論、文学は道徳の教科書ではないし、文学から生きる為の有用な知見を抽出しようと試みること自体、近代的な旧習、高慢なアナクロニズムに過ぎないと世人は嗤うかも知れない。しかし、文学は娯楽に過ぎない、深い内省など鬱陶しいだけで愉しみの邪魔になるから寧ろ除去すべきだ、という尤もらしい功利的な見解には、私は承服し難いものを感じる。これほど多様な娯楽が氾濫している時代に、文学の役割は娯楽だと大声で喚いても虚しいだけである。ラヒリの小説に満ちているような行き届いた思索と抒情、それは正しく単なる娯楽を越えた文学の独創的な魅力ではないだろうか。

 

その名にちなんで (新潮文庫)

その名にちなんで (新潮文庫)